上野国安中の電報 ―柳沢庄平家における商用通信の定量分析―

上野国安中の電報 ―柳沢庄平家における商用通信の定量分析―

板橋 祐己

郵便史研究会 『郵便史研究』(第57号)2024年10月

はじめに

筆者は上野国安中の米問屋として知られる柳沢庄平家に届いた明治23(1890)年から大正13(1924)年頃にかけての電報送達紙を1万通余り入手した。かなり長い期間にわたる商用通信が古書市場にまとまって出てくることはあるが、30数年にわたってほとんど毎日のように着信したという数的規模において特異であり、これだけの定点観測が可能な材料に触れたのは初めての経験だった。ここでは安中郵便局や周辺地域における電信事業の展開状況を整理しつつ、柳沢庄平家における商用通信から読み取れる事柄やいくつかのポイントになる電報送達紙の実例について紹介していきたい。

1.安中字谷津の柳沢庄平家について

旧安中町大字安中字谷津(群馬県碓氷郡)の柳沢庄平家は、『群馬県姓氏家系大事典』(角川書店、1995年)をひも解くと、江戸時代末期に碓氷郡大竹村から安中へ移って、米穀商を始めて繁盛した家として記述されている。旧大竹村(大字大竹)は中山道鉄道の安中駅と磯部駅の中間ほどの場所であり、碓氷川の右岸(安中の対岸)に位置し、磯部に封じられた平頼盛の家臣である大竹与左衛門により鎌倉時代に新田開発が行われた地だ。

柳沢庄平家は北関東有数の米問屋となり、屋号を米庄とした。もともと当主は柳沢正兵衛と称したが、いつしか柳沢庄平を名乗るようになり、これが世襲名となった。初代の柳沢庄平は明治5年7月1日(1872年8月4日)の安中郵便取扱所の開設に際して郵便取扱役の1人に就任した。安中郵便取扱所は当初、郵便取扱役が2人おり、もう1人の郵便取扱役である小林利平の自宅で行っていたことから、郵便実務の多くは小林家が受け持っていたと推測される。

安中郵便局の『大正5年度局原簿』(清水家)によると、初代の柳沢庄平は明治11(1878)年11月辞職した。『安中市史』の記述によると、明治18(1885)年11月25日に柳沢孫太郎(のちに2代目柳沢庄平を襲名)が郵便取扱役となり、明治19(1886)年1月20日に三等郵便局長となった。その後、明治19年11月20日に中村元吉が郵便局長に就いている。それ以降の安中郵便局は中村家、清水家、金井家が三等郵便局長を務めた。

郵便事業を辞した2代目の柳沢庄平は明治30(1897)年11月15日に安中銀行を資本金16万円で開業した。当初の役員は頭取柳沢庄平、取締役柳沢友吉・中村仙造・湯浅三郎、監査役本田忠吉郎・横田代助・大沢園吉だった。このうち、中村仙造は明治23(1890)年5月6日に中村元吉の後任として安中郵便局長に就いた人物であり、明治29(1896)年9月16日まで務めた。こうした経緯を鑑みても柳沢家と中村家の浅からぬ関係が読み取れよう。

3代目の柳沢庄平(先代の三男、幼名 良介)は明治12(1879)年9月1日に生まれた。郵便事業には関わらなかったが、『躍進群馬縣誌』(躍進群馬信交会、1956年、1244頁)の記述によると、26歳となった明治39(1906)年に庄平を襲名して、安中銀行取締役頭取に就任した。その後も3代目の柳沢庄平は上州銀行や群馬銀行などの各銀行の取締役を歴任したほか、祖業である米穀商の米庄(合資会社米庄商店)の経営に携わった。また、明治42(1909)年で安中町町会議員に当選して以来、市政でのキャリアも重ねた。昭和18(1943)年からは3年余りにわたり、戦中・戦後直後における安中町長を務めている。米穀商はその後、3代目の柳沢庄平の長男に当たる柳沢 潔氏が支配人を務めたが、その後は柳沢庄平家の番頭を担った他家へと移った。現在も有限会社米庄商店として存続している。

横川・磯部・安中周辺の略地図

横川・磯部・安中周辺の略地図

2.米庄商店の活動を示す遺構「旧・米貯蔵倉庫」

柳沢庄平家の名残を止める建造物としては、明治23年頃に建設されたと伝えられる「米庄商店 旧・米貯蔵倉庫」(群馬県安中市3丁目16-5)が挙げられる。高崎・横川間の鉄道開通が明治18(1885)年10月15日であり、碓氷峠の難所を含む横川・軽井沢間の鉄道開通が明治26(1893)年4月1日だった。安中が中山道の宿場町から中山道鉄道の沿線の地域へと変容を遂げていった時期にできた建物(図1)である。

「米庄商店 旧・米貯蔵倉庫」は五積造りと呼ばれる柱を用いない煉瓦造り(イギリス積)・瓦葺の建物である。もともと複数棟あったが、現存しているのはそのうちの1棟のみとなっている。現在は「米庄ギャラリー」として利用されていて、近隣から集められた骨とう品や民具、安中にまつわるさまざまな史料類などが展示されている。県道125号(旧中山道)沿いにあり、とても目を引く建物となっているため、付近を通りかかればすぐに分かるものと思われる。

旧・米貯蔵倉庫の外観

図1 旧・米貯蔵倉庫の外観

3.柳沢庄平家の郵便史料の概略

続いて柳沢庄平家に伝わる郵便史料について概説したい。いわゆる「蔵出し」の状況を伝え聞くところでは、書状は明治初年から確認されたが、中身のみで外封筒は保管されていなかった。一方で郵便はがき類はよく整理された状態で残っていたという。

郵便はがきはかなりの量が保管されていたようで、柳沢庄平家へ宛てられた鉄道郵便印のある郵便はがきや年賀状(図2)などをオークションで複数回確認したことがある。現存する安中郵便局の消印を持つ郵便物のうち、一定割合を占めているのは間違いない。

郵便物以外の重要な郵便史料としては、明治6(1873)年7月から明治17(1884)年までの郵便経費を駅逓寮(局)から内国通運会社を通じて下げ渡した切符、安中郵便局の全国為替印鑑帳が残されていたと伝え聞く。

この中で筆者が入手したのは概ね明治23(1890)年から大正13(1924)年頃にかけての電報の1万通余りだった。いずれも紙縒りで時系列的に丁寧にまとめられている状態だ。その大部分が米穀類の商取引の重要な記録であるため、おそらくはほとんど抜け漏れなくとじ込まれたものと思われるが、中には雇人親族の訃報や危篤の知らせ、米穀の買い付けに出た柳沢庄平らからの通信なども混じっていた。中には1カ月~1年の単位で欠落した部分もあったが、30数年にわたる商家の通信の記録がほぼ残されており、同種の電報としてもとりわけ数的規模が大きいことから貴重なものと考えられた。

柳沢庄平(2代)宛ての年賀状 上野 横川(明治30.1.1ホ便)

図2 柳沢庄平(2代)宛ての年賀状 上野 横川(明治30.1.1ホ便)

4.電信開通以前の安中における電信利用

安中と電信の関わりを時系列的に見ていきたい。安中郵便局に電信が開通して、安中郵便電信局として改定されたのは、明治26(1893)年1月21日のことである。それより前の時期において安中で電信を利用するにはさまざまな創意工夫が必要だった。このことが柳沢庄平家の電報から裏付けられる。

まず上野国において公衆電報が開始されたのは、高崎電信分局と前橋電信分局が開局した明治10(1877)年10月15日のことである(図3)。明治天皇が明治11(1878)年に北陸と東海道方面を巡幸するのに合わせた置局で、安中でも10kmほど離れた高崎経由での電報利用が可能になった。柳沢庄平家における「蔵出し」で明治10年代の電報も一定数が含まれていたと聞くが、おそらくその多くが高崎電信分局(電信局)に着信した電報を郵便配達(ツツ)扱いで送達したものではないかと思われる。あるいは柳沢庄平本人やその商店の従業員が米の買い付けなどで出向いた先で受け取った電報なども綴られているかもしれない。

高崎電信分局開局を知らせる兵庫県告示

図3 高崎電信分局開局を知らせる兵庫県告示

この地の郵便逓送において重要な役割を果たしたのが中牛馬会社の存在である。もともと農民の駄賃稼業から始まった民間輸送が郵便創業期における西上州の中山道沿いの郵便逓送を担っていた。長野県や群馬県における広大な輸送網を背景にした彼らの活動は中山道鉄道の開業後に一転して、明治20年代に消滅したとされる。

中山道鉄道(のちの信越線の一部)の高崎・横川間は当初から官設鉄道として開業した区間である。明治18(1885)年10月15日に開業し、同日に飯塚駅・安中駅・磯部駅・松井田駅・横川駅も開業した。当初は1日4往復が行われ、高崎・横川間の約30kmを1時間20分で結んでいた。高崎・横川間の鉄道はこれまでの中山道のルートとは異なり、安中の中心部から見て碓氷川の対岸(右岸)を通り、温泉地として知られる磯部を経て松井田へと至るルートとなっている。また、安中駅も碓氷郡役所から2km近く離れた場所に位置している。これは沿線農民が汽車の吐き出す煤煙を嫌ったものと説明されることもあるが、郷土史の書などには鉄道が碓氷川左岸の段丘を登るルートを通過することが困難だったと説明されている。

中山道鉄道に鉄道扱いの電信専業局所ができたのは明治22(1889)年のことである。明治22年4月1日に磯部駅に磯部電信取扱所が開設され、明治22年5月1日に横川駅に横川電信取扱所が開設された。安中ではなく、磯部に電信取扱所が設置されたのは意外に思われるかもしれない。これは筆者の推測であるが、先述のとおり安中駅が安中の中心部から離れていて便のよいところではなかったこと、磯部が温泉記号発祥の地としても知られる温泉地であったこと、高崎・横川間の中間地点に位置することなどが理由として考えられるだろう。

ここで興味深いのは、明治22(1889)年5月以降における柳沢庄平家の電報の受取方法である。安中から最寄りの電信局所は約6km離れた磯部電信取扱所であり、磯部駅前の商店に託す形で電報を受け取った事例も見られるが、さらに離れた横川電信取扱所で受信した電報を横川駅の中牛馬会社に直配達させていたもの(図4)が確認されるのは示唆深い。柳沢庄平本人もしくは親族や雇人が横川まで受け取りに出向いていたのか、あるいは中牛馬会社の保有する輸送手段に載せて安中の米庄商店まで届けさせていたのかは定かではないが、同じような例が複数見つかったことから柳沢庄平家にとって横川電信取扱所で受信するのがもっとも合理的だったのは間違いない。

先述のとおり、柳沢庄平家はすでに明治19(1886)年11月時点で安中郵便局長を辞しているが、これまでの郵便事業の経営で関わりがあったことから何らかの便宜が図られたのかもしれない。実際にどのような運用が行われたのか不明点も多いが、すでに鉄道が開通してその存在意義が薄れつつあった明治20年代の中牛馬会社の活動の一端を推し量る上でも貴重な史料と言える。

図4 稲荷山郵便電信局―横川電信取扱所(明治23.2.9)

図4 稲荷山郵便電信局―横川電信取扱所(明治23.2.9)

5.碓氷馬車鉄道から官営鉄道の碓氷線へ

安中における電信事業と直接の関わりはないが、柳沢庄平家が直江津(新潟県)や稲荷山(長野県)などの信越方面との米穀の商取引を頻繁に行っていることから横川・軽井沢間について概説したい。

これはあまりに有名な話ではあるが、横川・軽井沢間には碓氷峠という古くからの難所が存在する。直線距離にして10kmほどだが、標高差552mという碓氷峠越え区間の鉄道建設には高い技術と莫大な経費を必要とすることから幹線鉄道の建設の大きな障壁となり、明治19(1886)年には日本の東西を結ぶ幹線鉄道は中山道ルートではなく、東海道ルートに変更することにもなった。明治18(1885)年10月15日に開業した中山道鉄道の高崎・横川間が建設資材輸送連絡線としても機能していたのも見逃せないように思われる。

一方、直江津から軽井沢を結ぶ直江津線も、中山道鉄道と同時期に建設されていた。軽井沢駅の開業は明治21(1888)年12月1日であり、軽井沢電信取扱所の設置は明治23(1890)年9月8日である。

また、碓氷峠越え区間の鉄道建設方式が模索される中、いち早く横川・軽井沢間を連絡したのが、高崎の矢島八郎などを中心に建設され、明治21年9月5日に開業を見ることになる碓氷馬車鉄道だった。碓氷馬車鉄道は、東京から直江津へ至る区間の旅客及び貨物輸送の役割を担い、鉄道建設に必要な資材の運搬手段としても重要だった。碓氷馬車鉄道は馬を片道ごとに2回交代する必要があるなど運行には多くの経費がかかっていたが、それでも旅客や貨物の輸送自体の収益は良好な成績をあげた。

しかしながら、鉄道庁が明治23(1890)年に碓氷線(図5)の建設を決定すると、ようやく本格的な鉄道の敷設計画が推進されることとなり、碓氷馬車鉄道が暫定的な役割となることも決定的となった。明治26(1893)年3月1日にアプト式ラックレールを採用した官営鉄道の碓氷線が開通すると、碓氷馬車鉄道は5年足らずで廃線となったのである。碓氷馬車鉄道は廃線後、すべての資材は群馬鉄道馬車に売却されて幕を閉じたが、難所を越えるための重要な役割を果たした。

ここでは、柳沢庄平家の商取引が明治21(1888)年12月以降に碓氷馬車鉄道と直江津線の連絡によって信越方面との商取引のあり方が大きく変わったこと、明治26(1893)年3月の碓氷線の開通によりさらなる発展を遂げたことに触れたが、いずれも本稿での議論を進める上で無視できない。

碓氷線関連の遺構。旧丸山変電所(上)

図5 碓氷線関連の遺構。旧丸山変電所(上)

高崎電信分局開局を知らせる兵庫県告示

図5 碓氷第三橋梁[めがね橋](下)

6.安中郵便電信局への改定とその当日

安中における電信事業の歴史をひも解く中で、もっとも大きな結節点となるのが、やはり安中での電信開通だろう。電信設備の工事が完了したという意味での電信開通はそれよりも多少早い時期になるだろうが、安中郵便局(三等)が安中郵便電信局(三等)に改定された明治26(1893)年1月21日が安中における電信が公衆に開放された日であり、一般的な意味での電信開通日と見なすことができる。

『群馬県郵便局略史』(原田雅純編、高崎郵泉堂、1979年)及び『電信・電話専業局所リスト(明治篇)』(遠藤英男、成田真之著、私家版、2004年)を参照。

電信印に関心を持つ方の間ではよく知られた話ではあるが、電信事務の機能を持つ郵便局は当時、郵便電信局という局種だった。もともと「郵便電信分局合併の件」(明治19年11月16日 閣令第30号)による設置が最初で「地方郵便局及電信分局ハ土地ノ情況ニ依リ便否ヲ斟酌シテ之ヲ合併シ其事務ヲ取扱ハシムルコトヲ得」とある通り、既存の郵便局と電信局所の合併を促す趣旨のものであり、明治19(1886)年12月1日に改定された長崎郵便電信局が全国第1号だった。

群馬県内では明治20(1887)年10月1日に改定された前橋郵便電信局が郵便電信局の県内第1号である。しかしこれまで電信分局が未設置だった場所の郵便局が新たに電信事務の取扱いを開始して郵便電信局となる場合も次第に増えていき、三等局の郵便電信局への改定も一般的になっていった。安中郵便電信局はまさにこうした後者のケースに該当する。このようにして安中郵便電信局は群馬県内で10番目の郵便電信局となり、横川電信取扱所や磯部電信取扱所における長方形局印並びに明治23(1890)年5月1日から使用開始された丸一型日付印(電信)を用いた電報が柳沢庄平家に届くことは原則としてなくなった(図6)。

図6 長方形局印と丸一型日付印(電信)

安中における電信開通の前後を見ていこう。こちらは図版の紹介を割愛するが、電信開通2日前に当たる明治26(1893)年1月19日の午後1時32分に陸前国の古川郵便電信局から発信して磯部電信取扱所で受信した電報送達紙が筆者の手元にある。米庄商店への到着時刻は午後6時40分であり、磯部から約5時間の所要時間が生じていた。もう一方のものが、明治26(1893)年1月21日に安中郵便電信局に着信した電報送達紙(図7)である。

古川郵便電信局(宮城県)―安中郵便電信局(明治26.1.21)

古川郵便電信局(宮城県)―安中郵便電信局(明治26.1.21)

一見すると、明治25年型と呼ばれる当時よく使用された電報送達紙であり、非郵便を意味する便号なしの丸一型日付印が押印された点でもごくありふれている。しかしながら、安中郵便電信局に改定された当日の明治26(1893)年1月21日の第2号とある。すなわち安中における電信開始後に着信した電報の2例目ということになる。

ここで改めて注目されるのは、電報が米庄商店までもたらされる所要時間の短縮だろう。米庄商店が安中郵便電信局の近くに所在したこともあるが、安中郵便電信局に午後0時16分に着信した電報送達紙はわずか数分後の午後0時20分に米庄商店で受け取れたことが読み取れ、これまで約5時間かかっていた着信から受取までの所要時間が大きく短縮されたことになる。これは米穀商における商取引にも大きなメリットがあったものと推測されるし、電報送達紙の着信通数も年々増加傾向にあった。

なお、米庄商店は同日の午後4時9分に安中郵便電信局に着信した電報送達紙の第4号を午後4時15分に受け取っている。安中における電信開通時点では、柳沢庄平家が安中における電信需要の多くを占めていたことや、電信開通初日は1日数通程度の電報が着信する程度の静かなスタートを切ったことがうかがえる。

7.柳沢庄平家に見る電文上の年賀儀礼の始まり

筆者が安中の電信に限らず、以前から関心を寄せていた事柄の1つに電報上に見られる年賀儀礼の始まりがある。明治時代の終わりから大正時代にかけて、年始に交わす最初の電報に「シンネンヲガス(新年を賀す)」もしくは単に「ガス」(賀す)あるいは濁点を1字分として課金することから「カス」と略記するなどして、新年の挨拶を入れた電文を見かけるのだが、このような年始儀礼の習慣の始まりはいつからなのかという問題関心についてである。

ここで注意したいのは、正式な「年賀電報制度」や「慶弔電報制度」ではなく、あくまで電文を交わす際の習慣が関心の中心だということだ。わが国における正式な「年賀電報制度」としては、いわゆる「台湾年賀電報」として明治40年から数年間行われたのが最初である。明治33(1900)年に台湾が逓信省本省に年賀電報の実施可否などを照会し、実現をみたのは明治40(1907)年のことだった。また内地において「年賀電報」として制度化されたのはさらに遅く、昭和9(1934)年12月1日のこと、つまり昭和10(1935)年の正月からだったが、これらのものは本稿の関心から外れることになる。

新潟郵便電信局(新潟県)―安中郵便電信局(明治32.1.2)

図8 新潟郵便電信局(新潟県)―安中郵便電信局(明治32.1.2)

こうした電文上の年賀儀礼への関心を持ちながら明治23(1890)年以降の柳沢庄平家の電報を確認したところ、ようやく見つけることができたのは明治32(1899)年1月2日(図8)と4日の2通の年賀儀礼入りの電報だった。これがもっとも早い例であり、筆者が現物で確認したものでも最古例となった。特に1月2日の例は同文電報(ヨム)となっており、新潟の商店が複数の取引先に同一文面の電報を発信したものであることが分かる。このようにすでに明治32年に同文電報で年賀儀礼を発信していた様子を確認できたことから、それより前から一定程度行われていたことが推察される。

8.明治32年4月1日の料金改正前後の観察

もう1つ筆者がかねてから注意深く観察したいと考えていたのは、明治32(1899)年4月1日の電信料金改正の前後である。これまでの「電信料金の全国均一制・和文電報の名宛て料の無料化・電信切手の使用」などを定めた電信条例と電信取扱規則(太政官布告第7号・第8号)が施行されたのは、明治18(1885)年7月1日のことだった。それから細部の変更こそあったが、電信料金の全面的改正などは明治32年4月1日施行の電信取扱規則改正(逓信省令第4号)までなかった。

明治32年4月1日の電信料金改正でもっとも大きかったのが、発信人の宛名住所が課金字数に算入されたことである。字数に対する課金も「10字以内15銭」から「15字以内20銭」に改定された。追加字数10字ごとに10銭は据え置きだったが、発信人の宛名住所が課金字数となったため、実際には見かけ以上の値上げだった。ただし、受信人の宛名住所は濫りに省略されると配達に支障が出るため、課金字数に算入されることはなかった。

花巻郵便電信局(岩手県)―安中郵便電信局(明治32.3.31)

図9 花巻郵便電信局(岩手県)―安中郵便電信局(明治32.3.31)

実例を見ていきたい。1つは明治32(1899)年3月31日の旧電信取扱規則が適用された最終日の電報送達紙(図9)であり、まだ「発信人」欄が課金字数に算入しない午後7時31分に発信されたものだ。電文から米庄が花巻にあるキヨノ(商店?)と商談していたことがうかがえる。局待(ヤム)扱いとなっていることから、花巻の発信人は安中郵便電信局へ発信したのち、局内で米庄商店からの返信を待っていたことを意味している。それに対して柳沢庄平は「見た。良き品積め」と商談成立の旨を返信したことを墨書きから分かる。本例が米庄商店における旧電信取扱規則時代の最後の1通と見られる。

もう1つは翌日に同じ花巻の明治32年4月1日施行の改正電信取扱規則が適用された初日の電報送達紙(図10)であり、「発信人」欄が課金字数を算入する新料金初日のものである。着信番号には「壱」とあり、安中郵便電信局における新料金適用の第1号であることを意味している。この電報に発信人の記載はなく、丸一型日付印による証示も洩れているが、発局名と「一〇七」といった電文から「昨日のやりとり」の続きだと分かる。米庄は取引先と事前の取り決めをしていたようで、明治32年4月の1カ月のあいだに着信した商用通信の大半は「発信人の宛名住所」が省略された。ただし、発信人の宛名住所の省略は商用通信においても不便だったようで、米庄商店は「コメセウ」(下掲)という電信略号を使用した。

花巻郵便電信局(岩手県)―安中郵便電信局(明治32.4.1)。発信人欄が空欄である。

図10 花巻郵便電信局(岩手県)―安中郵便電信局(明治32.4.1)。発信人欄が空欄である。

9.柳沢庄平家における商用通信の定量分析

筆者はさらに入手した電報のうち、明治27(1894)年から明治43(1910)年の電報送達紙について定量調査を行った。明治30(1897)年1月から明治31(1898)年11月までが欠落していたが、それ以外の7,776通が紙縒りにとじて原則として時系列的に保管されており、ほとんど抜け漏れもないものと推察された。上野国西部という地域性、群馬県と信越・東北地方との通信への傾斜、米穀商という業態の特殊性などはあるにせよ、これだけの数量の明治時代後半の電報を時系列的に調査できる機会は今後もほとんど期待できないと考えられたため、7,776通の電報の基本データを取得して定量分析を試みることにした。

まず、電報を受信した曜日についてだが、ほとんど毎日のように電報が交わされていることからも想像されたとおり、大きな差異は見られなかった。7,776通のうち、日付判読が困難なものや発信と受信の日付が2日にまたがるなどの例外的な20通を除いて求めた結果が次のとおりである。

柳沢庄平家に届いた電報の曜日別内訳(通数・割合) 母数:7,756通

柳沢庄平家に届いた電報の着信時間帯別内訳(通数・割合) 母数:7,772通

結論から言えば、定量的に月曜日から水曜日にかけての週の前半にやや傾斜する傾向がみられた。週末については日曜日が少ないという傾向は見られたが、一方で土曜日はやや多いという結果だった。電報が安中郵便局(安中郵便電信局)に着信した時刻は午前8時過ぎから午後9時までおしなべて多く、特に午前9時から午後3時台までの時間帯に集中している様子が見てとれた。

電信の遅延等の事故発生については、電信業務が集中した際に起こる輻輳遅延が27件(発生率:0.35%)、不良延着や不通延着は21件(発生率:0.27%)だった。ふだんから電信資料に触れている感覚からすると、意外に低い数字という印象だった。明治時代後半に限って言えば、通信の品質や安定性はかなり高い水準まで保たれていたことが伺える。また、不良延着や不通延着は冬などの寒冷な時期や雪の多い時期に起こりやすいとも言われるが、8月や9月などの夏の暑い時期にも少なからず発生していて、季節要因との相関はあまり強くないものと考えられる。

特殊扱いに関して言えば、米庄商店が通常の商取引に使用していることや電信料金を節約しようとする意識が働いたためか、意外なほどに少ない通数に止まった。適用する割合の低さはそのまま一般的な電報の通数や割合を反映していないものと思われるため、あくまで参考値といった考え方でよいだろう。また、米相場を一斉配信する場合もあったため、低廉料金が適用された同文電報の割合が多く出ていた。この同文電報の出現頻度についても参考値扱いとするのが妥当だと思われる。

柳沢庄平家に届いた電報の特殊扱いの出現率(通数・割合) 母数:7,776通

ただし、局待と返送料前納を適用した例もそれぞれ1件ずつカウントした。

11.安中郵便局で受信した電報の名宛人の誤謬

安中郵便局に着信すると、わずか数分で柳沢庄平家に配達された電報だったが、受信当務者の聞き取りミスや打電の誤りで時間を要することもあった。特に多いのが「コメヤショウヘイ」(米屋庄平)と「コバヤシヨウヘイ」(小林ようへい)などの誤謬である。「メ」と「バ」がモールス符号上似ていることや、安中には小林姓が多いこともあり、安中郵便局ではしばしば悩まされていた。

碓氷郡安中役場まで「コバヤシヨウヘイ」という人物がいないか照会し、最終的に「コメヤショウヘイ」と確定するために長い時間を要した明治38(1905)年9月の例(図11)を紹介したい。

碓氷郡安中町役場之印(左)と当該の電報(右)。横浜郵便局―安中郵便局(明治38.9.5)

図11 碓氷郡安中町役場之印(左)と当該の電報(右)。横浜郵便局―安中郵便局(明治38.9.5)

(誤記載)

(誤記載)

11.関東大震災直後に柳沢庄平家へ着信した電報

筆者が入手した電報のうち、大正時代は散逸している年代も多かったため、詳細なデータ集計を含む定量調査は行わなかった。しかしながら大正12(1923)年9月2日から28日にかけて受信した電報送達紙が紙縒りにとじた形で含まれていて、大正12年9月1日の正午前に発災した関東大震災直後の電信業務を推察する1つの材料となるため、震災期に米庄商店に着信した例について考察しておきたい。

まず前提的な事柄から説明するが、被災地から離れた安中では直接的な被害がなくとも、電信の上では大きく影響を受けている。震災直後の安中における電信を理解する上で手がかりになるのが、『震災切手と震災郵便』(牧野正久、日本郵趣出版、1982年)で、被災地から高崎郵便局経由で安中にもたらされた罹災者からの無料電報について「高崎局から安中局への頼信紙送付は9日から13日まで5日間続いて、あとがない。東京から発信されたものが3日か4日目に受信人に届いたわけである」(117ページ)との記述がある。

ここでは罹災者からの無料電報について立ち入った議論は行わないが、牧野(1982年)によると、震災後の焼失を免れた東京中央郵便局、渋谷郵便局、中野郵便局、京浜電車構内の横浜仮受付所などでは、9月6日から10日にかけて安否確認の無料電報の受付が行われた。発信人の殺到で頼信紙が間に合わず、電報申し込みは何の紙でもよいとの臨時の措置がとられた。このうち、一部は電報として発信されたが、多くは電文が手書きされた電報頼信紙のまま安中まで鉄道輸送の形で届けられた。これらのものが安中に9日から13日まで5日間連続で逓送されて、名宛人へ交付されたのである。こうした記録から考えると、おそらく震災発生から約2週間は安中においても異様な緊張状態の中で、被災地にいる親族や知人などの安否確認を行っていたことが想像される。

続いて柳沢庄平家の電報の観察に移りたい。柳沢庄平家に震災前日の大正12年8月31日に着信した電報送達紙は2通だった。しかし9月1日当日の電報は一切見つからなかった。紙縒りでとじていたため、9月1日着信の電報の抜き取りも一切行われなかったと考えられる。

震災後、もっとも早く届いたのは、9月2日午後9時1分に横川郵便局(と思われる)から発信され、午後9時4分に安中郵便局に着信したもの(図12)である。「明日、米10俵頼む」とあるため、おそらくは横川駅近くの商店だと考えられる。

続く9月3日と4日は1通の電報送達紙もなかった。確証はないが、安否確認の連絡などで電信がひっ迫していたため、不急の商用通信の出し控えがあったものと推察している。9月5日から10日にかけて計14通の電報送達紙が着信しているが、信越・北陸方面の取引先との通信が12通を占め、朝鮮の元山からが1通、群馬県内からが1通だった。多くが至急(ウナ)と遅延承知(ラナ)の扱いとなっていて、遅延承知の記載がなかったのは同じ群馬県内のものだけだった。

柳沢庄平家に9月中に届いた電報送達紙57通の基本的なデータを俯瞰すると、北関東と信越・北陸方面の通信においても関東大震災の影響が大きかったことを物語っているといえるだろう。米穀商のあいだの商用通信で至急扱いが見られなくなったのは9月11日だったが、信越方面に関して遅延承知の指定のないものが確認されるのは9月18日からである。さらに個々のケースを見ていくと、群馬県内の通信は群馬・草津と安中、横川と安中の2例を見るかぎりは通常通りのようだが、茨城・岩瀬と安中との通信に半日以上を要している場合もある。

また、被災地と直接的な連絡が取るのが難しかったためか、安中と朝鮮各地の間でも安否確認を行っている例もあった。特に興味深く感じたのは、図表中のNo.26とNo.47の鎮南浦(朝鮮)からの電報2通だった。No.26で「小石川、安否なぜ知らせぬや。こちら心配なきにつき、すぐ知らせ」(15日)と安否情報の催促をしていた(図13)のを見て、安否情報について神経質になっている様子や「心配ない」こととは何かと考えていたが、No.47に「安産にて女生まれた」(22日発信・23日着信)という電文で謎が解けた。電報の発信側は新たに生まれる女児の父親の消息を知りたかったのであり、一方の電報の受信側も震災期に新たに生まれる命に希望を感じていたのだろう。

柳沢庄平家に届いた大正12年9月の電報送達紙

関東大震災発災後に最初に届いた電報送達紙(左)。近接地のため、特に支障なく届いた。上野・横川郵便局-安中郵便局(大正12.9.2)

図12 関東大震災発災後に最初に届いた電報送達紙(左)。近接地のため、特に支障なく届いた。上野・横川郵便局-安中郵便局(大正12.9.2)

柳沢庄平家に届いた鎮南浦(朝鮮)からの安否情報を督促する電報送達紙(右)。安中は被災地ではないため、安否情報の照会そのものは少ないが、被災地へ直接問い合わせができない朝鮮在住の関係者(京城、元山、鎮南浦)から数通の安否情報の照会が入ったことが確認された。(大正12.9.15)

図13 柳沢庄平家に届いた鎮南浦(朝鮮)からの安否情報を督促する電報送達紙(右)。安中は被災地ではないため、安否情報の照会そのものは少ないが、被災地へ直接問い合わせができない朝鮮在住の関係者(京城、元山、鎮南浦)から数通の安否情報の照会が入ったことが確認された。(大正12.9.15)

関東大震災前後の安中郵便局に着信した柳沢庄平家宛ての電報

12.安中における二省分離後の電信事務

筆者が入手した電報送達紙は基本的に大正13(1924)年頃までであり、例外的に昭和10年代の年賀電報なども一部入手したのみだ。したがって実物を観察することはできなかったが、安中郵便局における電信事務取扱いの最後とそれ以降の安中郵便局の歩みについて触れておきたい。

周知のとおり、逓信省が昭和24(1949)年6月1日に二省分離(郵電分離)され、郵政省とともに電気通信省が設置された。この分離の対象となったのは普通郵便局までで、安中郵便局などの特定郵便局では郵政省に所属しながら電信業務も委託形式で取り扱いが続けられた。その後、昭和27(1952)年8月に電気通信省が電電公社に改組された後も、郵政省と電電公社の間で「公衆通信業務の委託に関する協定」により継続された。

安中郵便局が電信事務を廃止したのは昭和30(1955)年9月11日のことだ。安中における電信事務については、『局所原簿』(郵政省)における安中郵便局の記載事項、『安中誌』(藤巻柳三郎、1957年)、『安中市史 第六巻 近代現代資料編1』(安中市市史刊行委員会、2002年、669頁)などの記述のあいだに若干の相違や矛盾点もあるが、昭和30年9月15日付官報(第8613号)郵政省告示第千四十八・千四十九号にあるとおり、安中郵便局は昭和30年9月11日をもって電信事務を停止し、新たに通話事務のみを開始した形だ。

新たに安中での電信事務の役割を引き継いだのは、同日開設された日本電信電話公社安中支所(安中電報電話局)だった。初代所長は高崎電話局長の須藤秀彦が兼務した。詳細な設置経緯までは分からなかったが、おそらくは昭和30年3月1日に(旧)安中町・原市町・磯部町・東横野村・岩野谷村・板鼻町・後閑村と合併し、新しい安中町が新設されたのに合わせたものと思われる。

安中郵便局は昭和33(1958)年9月24日に旧中山道南側の安中町大字安中字安中2丁目9-18(所在地名変更前:安中2779の1番地)に移転した。安中市制開始は昭和33年11月1日と同時期のことである。昭和37(1962)年3月1日に特定郵便局から普通郵便局に改定され、近隣の原市郵便局と磯部郵便局から集配業務を移管された。現在の安中郵便局の所在地である安中市安中3丁目24-7に移転したのは、昭和58(1983)年10月31日のことだった。この場所は中山道安中宿の旧本陣跡地に当たり、現在は郵便局の入口付近に安中宿本陣跡であることを示すプレートが立っている。

本稿の締めくくりとして、まず明治から大正にかけての米穀商における商用通信の調査研究の機会を与えてくださった方、また各種資料へのアクセスのために労をとっていただいた安中の関係者の方々も含めて心から謝意を申し上げたい。調査済みの資料から代表的な電報送達紙を精選し、「神奈川県 板橋祐己氏収集文書」(安中市の米問屋柳沢庄平[一時、安中郵便局長を兼務]宛ての電報送達紙。明治から大正期の商取引に関わるもの)として令和5(2023)年3月に群馬県立文書館へ寄贈したことをあわせて報告させていただく。

本稿で紹介した主な出来事

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