井上 卓朗(いのうえ・たくろう)
「月刊 たんぶるぽすと」Vol.46-2021
(*著者・株式会社鳴美・資料所蔵館の厚意により転載の許諾をいただきました。メイン写真は田無神社。サイト管理人)

表2は、差出人ごとに廻状の件数と内容をまとめたものである。藩地方役人からの回状が20件で一番多い。内容では、新領村々名主宛が大半で、負担金納入に関するものが多い。
また、徳川家斉逝去に伴う鳴物停止の命令もあった。次に多かったのが幕府の代官所からの廻状で11件、表に示したもの以外に、役人の手賀沼見分の予告なども含まれている。野馬放牧場があったことから、その関係役所の廻状が3番目になっている。
わずか戸数100軒に満たない小さな村に、幕府代官、領主など複数の支配者からの指示、組合村間の連絡、宿場の連絡などが村のネットワークを通じて行われていたことが分かる。その内容は多様であり、借金の返済や村と村との出入り(争議)などに関する文書も散見でき、江戸時代の一般的な村社会の縮図として読み取ることができる。
現在、地方史や村落研究等の近代史研究において、御用留や村入用帳など多数の地方文書が調査され翻刻されているが、その中には多数の公用状の記録が残されている。このような公書状による通信需要は、明治期になっても必然的に発生したものと考えられる。
(3)武蔵国多摩郡田無村における郵便実施前後の公用通信
それでは、明治維新後の地域の公用通信の事情はどのように変化していったのであろうか。近辻喜一による田無地方の歴史研究史料から見ることにする(6)。
江戸後期、武蔵国多摩郡田無村は韮山代官江川太郎左衛門支配の幕領であり、青梅街道の宿場として、また、製粉、養蚕などの産業によって栄えていた。維新後も韮山代官支配地としてそのまま韮山県に属していたが、明治2年4月23日より品川県、明治4年11月29日より入間県、明治5年1月29日より神奈川県に属している。田無村が東京府に移管されるのは明治26年4月1日である。
西東京市(旧田無市)に残る田無村の「年中村入用覚帳」によって、名主の下田半兵衛が記載した明治2年9月から明治6年8月までの4年間にわたる田無村の村費の支出明細が確認できる。下田家は安永5年ころから田無村の名主を務める旧家であり、代々半兵衛を名乗り、名望家として村の産業や福祉に大きな貢献をしている(7)。
さて、この「年中村入用覚帳」に記載された村費の支出の中で最も多いものは「浪人え遣わす」というものである。維新後に毎日浪人が名主宅を訪ねては、小遣いをせびっている世相がよくわかる。次に多いものが飛脚賃などの通信費である。
表3は近辻が翻刻した「年中村入用覚帳」から通信に関すると思われる事項を抜粋した表である。

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注
(6)近辻喜一「年中村入用覚帳」『田無地方史研究会紀要』(田無地方研究会)、第14号、平成6年、36-63頁。
(7)田無市史企画部市史編さん室編『田無市史』第三巻通史編、平成7年、386頁(表2−7田無村の村役人)。