論文 幕末・明治初期における公用通信制度(3)

井上 卓朗(いのうえ・たくろう)
「月刊 たんぶるぽすと」Vol.46-2021

(*著者・株式会社鳴美・資料所蔵館の厚意により転載の許諾をいただきました。メイン写真は韮山反射炉。サイト管理人)

 

覚帳における通信に関する記載件数は、表4に示すとおり、明治2年9月から12月までの4ヵ月間が19件、明治3年が64件、明治4年が14件、明治5年が25件、明治6年が1月から8月末までの8ヵ月間が8件で、合計130件である。その大半は、田無村が所属する県庁から届けられた廻状などである。県庁への呼出し状もあり、届いた数日後には県庁へ出向いた費用が記入されている。

維新後の韮山県庁は、韮山代官所のあった伊豆の韮山に置かれた。田無を含む武蔵国の韮山県地域の行政事務は、芝新新座の江戸役所が東京役所となり、そこで行われていた『田無市史』によると、韮山代官所の公文書送達は郷宿を利用して行われている(8)。

このような行政文書送達の通信費は村側が負担するのが一般的であるが、江戸太郎左衛門(英龍)は、郷宿を利用して廻状を回す際、郷宿の幸便などを利用するよう指示し、村側の負担を軽減したことから、村民からは名代官として高く評価された(9)。このことから、公用文書の送達経費の村負担が通常の場合かなり重かったことがうかがえる。

さらに村から上申する場合には、書状で行うのではなく、担当者と村役人共々が役所まで出向かなければならず、その出張費用まで含めると、かなりの費用負担となっていたと思われる。

品川県庁は日本橋浜町(幕臣小笠原弥八郎邸)にあり、公用状は内藤新宿経由で青梅街道を利用して届けられた。品川県よりの飛脚賃の欄には、大長、大治、秩父屋(馬喰町二丁目)、津久井屋という屋号が見受けられる。これは田無村の江戸郷宿で、品川県はこの郷宿を利用して田無村との通信を行っていた(10)。これは韮山代官所時代から変わっていない。

ところで、この津久井屋は柴井町の御用宿津久井屋新三郎のことと思われるが、横浜鉄道前旅館の津久井屋渡邊新三郎であろうか。内外蒸気御乗船宿開業広告には「東京柴井町但しんはし鉄道より品川口へ五丁余いつミや渡辺健蔵」との表記がある。

柴井町には和泉屋、植木屋という郷宿があり、韮山県、品川県の廻状等を扱っていた。この和泉屋と津久井屋が同じ渡邊姓であり、図3に示す蒸気船会社の船宿を開業したのであろうか。

さて、県からの飛脚賃は500文から金1分が多いが、同一県庁からでも金額の差がある。回状など他村と費用を分担するもの、単独の場合、内藤新宿からの継送、仕立便の場合、天候、荷物の量など諸条件で飛脚賃銭は変動したと考えられる。表3では、夜中の場合には倍賃銭、大風等の場合は、さらに増賃銭となっている。

通信量を見ると1ヵ月平均で見ると、明治2年と3年の通信量が多い。その要因は社倉米取立てに関る御門訴事件(11)など品川県古賀知事(12)と田無村との諸問題に関連するものと思われる。

―――

(8)『田無市史』、前掲書、560-561頁。
(9)『田無市史』、前掲書、557-564頁。
(10)古文書アーカイブ嵐山町の古文書を読む会サイト(埼玉県比企郡嵐山町)の「御用向色々手控帳明治二年」には、郷宿橋本町四丁目津久井屋新三郎下代作蔵下元助、馬喰町より久松町御用宿津久屋新三郎、柴井町宿和泉屋健蔵、東京柴井町御百姓宿植木屋藤兵衛、柴井町宿和泉屋健蔵、役所元旗本(小)笠原屋舗跡品川県古賀一平様御役所、東京柴新銭座韮山県御役所など、韮山県、品川県、浦和県から廻状などの御用を受けた郷宿の名称と住所が記載されている。吉田・藤野治彦家文書153(http://ranzan.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/1869153-2808.html)(最終閲覧日:2021年2月21日)。
(11)『田無市史』、前掲書、646-653頁。
(12)古賀知事は古賀定雄(一平)佐賀藩士(『田無市史』、前掲書、664-665頁)。

 

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