井上 卓朗(いのうえ・たくろう)
「月刊 たんぶるぽすと」Vol.48-2021
(*著者・株式会社鳴美・資料所蔵館の厚意により転載の許諾をいただきました。メイン写真は下総印旛沼。サイト管理人)
「年中村入用覚帳」には、明治5年4月5日「金弐分卜六百文駅逓ノ義二付中野村え出張」、同年5月2日に「金壱両三分弐朱半十郎杢左衛門是ハ郵便御開キニ付府中宿え出張入用なり」の記入があるが、田無村に郵便取扱所が開設されるのは明治5年7月である。
初代郵便御用取扱人は下田半兵衛の養子の下田半十郎であり、下田半兵衛の屋敷に郵便取扱所が設置された(13)。
田無村に郵便取扱所が開設されてからも、信書逓送が官営独占となる明治6年4月1日までの期間に10件の飛脚賃の記入がある。それ以降は、郵便の均一料金制導入と官営独占が実施されたため、飛脚賃の記入がなくなる。
ただし、郵便官営独占後も県庁からのものは脚夫賃と記入されているので、公用便専用の脚夫を用いた使送便が行われた可能性がある。郵便官営独占後、信書の送達は政府専掌となり郵便犯罪罰則規定が制定されたが、その第13条において、諸官状公状公訴の書状は駅逓頭の独任する権限から除外されていた。
つまり公用通信は郵便を使用しなくてもよいということになる。換言すれば、郵便に管内すべての戸長宅へ公用書状を期限内に送達する能力がなかったということを意味する。
(4)郵便開始時の下総国の状況
郵便全国実施に向けて各地で準備が進められていったが、準備はどのように進められていったのであろうか。先に平塚村の廻状について見てきたが、ここでは平塚村があった下総国における郵便開業について見ていこう。
下総国で郵便が開始されたのは明治5年である。その当時の事情について、我孫子宿の問屋兼名主で脇本陣を営む小熊甚左衛門が記録した「郵便並陸運会社御用留明治五年壬申年三月」と「郵便御用留明治六癸酉年一月一日」に詳しく記録されている。田辺卓躬は、この御用留の記録に基づいて、下総国の郵便開設状況を調査し、『下総郵便事始』の中で紹介している(14)。
下総国の郵便創業は、陸羽道中千住駅より水戸通陸中岩沼までと房総一円を巡回した駅逓寮出仕小田直方が担当した。この御用留によると、小田は陸羽道千住から松戸を経由して明治5年3月14日我孫子宿に入り、同宿では印旛県駅逓掛十二等出仕の真野順美が対応している。郵便取扱所開設地の取扱人予定者は、郵便取扱所開設と伝馬所廃止の請書を駅逓寮巡回掛に提出したが、3月15日、我孫子宿の小熊甚左衛門も印旛県から郵便御用取扱人を命ずる旨の辞令を受領している。
印旛県は同年6月22日、郵便取扱人を県庁のあった葛飾郡加村に呼び出し、「示書」をもって郵便開業の旨を示し(15)、また、「郵便道案内」によってその周知を命じた。
一郵便御用取扱人え示書
今般郵便てふものを被開御国内は四方の極まて所として書翰の往復せざるなきやう広く御世話之ある御趣意は郵便規則の巻について拝誦して又解得あれば敢而筆せぬと斯者上下の便利を置るるの幸は聞もの雀躍せざるはなし随て其方共に右の御用取扱を命し下これ未曾有の役に付大切に心得て発起をあやまり指笑をのこさざる様配意いたし信書を差出す人に善悪の扱振なく不深切の粗漏は更になきを旨とし可申一人の落度の一人而己と見看做效されば全国一般え差響き便途の障碍となるものなれば巳に郵便の二字に拘はり其害は大なるべし故に能く其職を盡して不倦不怠を要す犬は夜を護り鶏は暁を告く鳥獣てすら職を盡す况や萬物の霊なる人におゐて其職を盡さずんばあるべからず事務の擧ると擧らざかしがまるとは少しの配意によれば御発行の其日より一期を待ず管下の人民便利を唱をふる聲の囂しきをきかまほしく精々可有勉励もの也
壬申六月 印旛県
二郵便道案内
今度御国内一般に郵便を開かれ近ゐ国々わいふへくもなくとうき国の村さとや御国を離れる土地にても亜細亜わおろか欧羅巴亜非利加洲のはてまでも文の通わぬ地とてはなく広く御世話あるといふわほかならす御国の人民御布令ことをよくよく守り互に信書を往復し四方に起るよろつの情實かたちのかけよりも早くしき互に便利を達し互に其幸を祈り士農工商各其分を盡し銘々の業につゐて骨を折り天理人道に従てたかひの交を結び憂楽を同して千里の遠きに離れ住むも一区の近きに住むかく自由自在をなさしめん手引は郵便なるべし是迄親子十里或は二十里とはなれて稼き暮す時親子兄弟姉妹たち年始の祝祠や夏冬の暑さ塞さを尋ねたく思ひたちても脚夫賃高ゐか身には及ばねばおもひをはたす時やなくつゐに無音となれるものなればより親子の情薄く他人によって事をとりこれ人情か違ふゆへ親子喧嘩や口争次第に兄弟不和となりしたしき友を笑ひたり夫婦別れするやうになるもならねも便にあると深く御憐察のある事にて書翰の目方四匁なれば二十五里まて一銭なり二十五里より五里までは是又わつか二銭かかる低價に便を得るはさて有かたき御鴻意にてたとへ如何なる貧客も年に二三度急の事報合ぬといふことなくことの欠たる憾みなからしめむとの御趣意なれはおのおの能々この理を解して郵便切手といふものは人々常に懐中して急の便を欠かぬやう心懸たきものに候
壬申六月 (木下町吉岡家文書)
郵便取扱人は、この「郵便道案内」の趣旨を近傍在村小前の者に至るまで、すべての人に周知するよう命じられており、我孫子宿の小熊は、江戸時代と同じ方法で廻状により管轄の33ヵ村(現在の我孫子市、柏市のほぼ全域)の村役人へ周知している(16)。
次に、下総国において郵便取扱人の職業についてだが、郵便取扱人の選任基準として、駅逓寮巡回官員に配布された口達書には「すべての郵便御用取扱人は近傍在村へ多く往復する便宜のある業体の者を選定すること。但し飛脚渡世の者は除外すること。」と記載されている。
田辺の調査結果をもとに、下総国に郵便が開始された当時の郵便取扱人の名称、年齢、職業などを表5にまとめてみた。葛飾、印旛、香取など12郡の42の町村宿駅などに42人の郵便取扱人が選任されている。
次に、取扱人の年代別人員構成を表6に示す。年齢は42人中16人が不明であるが、判明した部分でみると、20代から30代の取扱人が多い。かなり若い印象を受けるが、当時、この年齢層が社会の中核をなしていたのであろう。
職業別では、42人中19人が職業不詳であるが、地域を代表する名主、そして地域で大きく商売をしている本陣・旅館業、問屋や運輸業が目立つ。醤油醸造も地域の主要産業であったことが、ここからもうかがえる。

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注
(13)近辻喜一「明治期の田無郵便局(1)」『郵便史研究』(郵便史研究会)、第4号、平成9年、1-2頁。
(14)田辺卓躬『下総郵便事始』崙書房、昭和55年、49-78頁。
(15)印旛郡編『千葉県印旛郡誌』第1巻2大正2第6節(1)郵便、305-307頁。田辺、前掲書、63-64頁。
(16)我孫子宿「郵便并陸運会社御用留」明治5年、郵政博物館蔵筆写本。「郵便御用留」明治6年、郵政博物館蔵筆写本。