資料紹介|黒ポスト異聞 垂便箱と東京府違式詿違条例-前島 密 『郵便創業談』の逸話について

黒ポスト異聞 垂便箱と東京府違式詿違条例(とうきょうふいしきかいいじょうれい)

井上 卓朗

郵便史研究会 『郵便史研究』(第57号)2024年10月

はじめに

垂便箱とは、トイレに間違えられた郵便ポスト(黒塗柱箱 図1)のことだ。明治5年に誕生したいわゆる黒ポストが、テレビの番組や雑誌などに取り上げられる際に、かならず紹介されるのが「垂便箱」のエピソードである。インターネット上にも数多く見かけるこの逸話が現代まで伝えられてきたのは、前島密が「郵便創業談」(注1) の「郵便といふ名称」という項目の中で、次のように紹介しているからである。

ある田舎の人で、今日で謂えば紳士とでもいう程の者であるが、東京見物に出てきて、明治五年始めて東京市中の辻々に、柱箱を建てたのを見ると、白字で郵便と書いてあり、また、又その信書の差入口のふたに差入口と書いてある。その紳士は之を見て郵の字の偏が垂という字である故「タレベン」と読んで郵便箱を雪隠と間違えたのだが、それにしてもその差入口が小さいばかりか、又甚だ高過ぎるので、普通の日本人の用には適しないと、つぶやいたとの事で、本寮中の笑柄となった。斯様な珍談も幾らもあつたが、郵便といふ文字よりは、其呼び声が忽ち世間の耳に慣れて誰も知らない者もないやうになつたのは、必要の然らしめた者であります。

図1 黒塗り柱箱雛形(筆者による模写加筆図)

図1 黒塗り柱箱雛形(筆者による模写加筆図)

実話である証拠

この事件は、創業当時の作られた笑い話のようにも思えるが、実は明治6年の「新聞雑誌」 (注2)という名称の新聞に「便所郵便箱」という記事として実際に掲載された実話である。その内容は次のとおりである。

便所郵便箱

一客ノ来話ニ、或ル田舎ノ農夫数十人東京見物トテ出掛シニ、其戸長ヨリ説諭シ、當節東京ノ形容ハ旧時ト違ヒ厳重ノ御沙汰アリテ、路傍へ小便ヲナシ叉ハ股脚ヲ露ハシ其他乱暴ノ所業ハ邏卒見留次第ニ、軽キハ罰金重キハ捕縛相成ニ付、能々心得テ往来スベシト丁寧ニ申聞セタリ。彼農夫等出京シ案ノ如ク市街ノ清浄邏卒ノ巡警実ニ心地ヨキ程ナリ。便所モ諸所ニ設ケアルト豫テ聞及ビ居、不図郵便箱ヲ見テ小便ヲナセリ。邏卒見當リテ之ヲ責ルニ、農云、便ノ字ヲ認メ且ツ差入口トアル故ニ則チ此度御取設ノ便所ト心得タリト云ヘバ、邏卒モ真ノ田舎愚直ノ心情ヨリ出ルコトトテ説諭シテ放テリトゾ。

(大意)ある田舎の農夫数十人が東京見物に出かけることになった。戸長(村長)たちは、「このごろ東京は、路傍に小便をしたり、暴力を振ったりして警官に見つかると罰金、重い場合は捕縛されるので、十分注意しなさい」と丁寧に言い聞かせた。東京の市街はきれいで、警官の巡回もあり、実に心地よく感じられた。

便所が諸所に設けられていると聞いていたので、郵便箱を見て小便をしてしまった。これを見つけた警官が農夫を注意したところ、「便の字があり、更に差入口と書いてあるので、これこそが、新たに設けられた『公衆便所』だと思って小便をしました」とのこと。これを聞いた警官は「田舎者の(条例を守ろうとする)愚直な心情から行われた行為」と考え、彼らに説諭だけして無罪放免にした。

原因は軽犯罪法の成立「違式詿違条例」

そもそも、郵便箱に放尿する行為が新聞記事になるほど大きな話題となった原因は一体何だったのだろうか。単に郵便という文字を垂便と読み間違えたという理由だけでは説明がつかない。

そのカギは明治5年に誕生した「違式詿違条例」 (図2)にある。難しい名称だが、要するに軽犯罪法のルーツのようなものと言える。ゴミ放置、立小便、入れ墨、裸体など、これまで日常生活の中で行われていた公衆道徳上不適切と言える行為が明治維新後に初めて法的に規制されたのである。

図2 違式詿違条例 憲法類編. 第十九 (注3)

図2 違式詿違条例 憲法類編. 第十九 (注3)

明治5年11月8日、東京府知事大久保一翁は司法省令の違式詿違条例(全文54ケ条)を「兼テ覚悟モ可致タメ五日ヲ猶予シ来ル十三日ヨリ厳重施行ノ筈ニ候條此旨可相心得候事」と布達した。条例の第四十九条には「市中往来筋において便所にあらざる場所へ小便するもの」(図3)という条項があり、これに違反したら刑事罰が規定されていた。この条例には軽い刑としては罰金、拘留、重い刑としては笞罰(鞭打ちの刑)があった。新聞記事にある「厳重の沙汰ありて云々」の部分は、この条例のことを指している。

明治6年には、各府県にも「地方違式詿違条例」が布達され、風俗、衛生、防火、営業、道路、交通上の行為など地域特性も考慮された幅広い分野の陋習が、軽犯罪として全国的に処罰の対象となった。

この条例の「違式」は「おきてにそむきつみ」、「詿違」は「あやまっておきてにそむくもの」と『岩手県違式詿違図解九拾ヶ條』 (図4)にひらがなで記載されている。

東京府違式詿違条例(抜粋)

(第一条)
違式ノ罪ヲ犯ス者八五拾銭ョリ少ナカラズ、七十五銭ヨリ多カラザル頭金ヲ追徴ス
(第二条)
詿違ノ罪ヲ犯ス者八六銭二厘五毛ヨリ少ナカラズ、拾二銭五厘ヨリ多カラザル頭金ヲ追徴ス
(第三条)
違式詿違ノ罪ヲ犯シ無力ノ者ハ実決スルコト左ノ如シ
一 違式 笞罪 一十ヨリ少ナカラズ 二十ヨリ多カラズ
一 詿違 拘留 一日ヨリ少ナカラズ 二日ヨリ多カラズ
(第四十九条)
市中の往来筋ニ於テ便所ニ非ザル場所へ小便セシムル者
(第五十条)
店先ニ於テ往来ニ向ヒ幼穉ニ大小便ヲセシムル者

違式詿違条例 細木藤七 編 洋々堂 明11.11 1878

図3 違式詿違条例 細木藤七 編 洋々堂 明11.11 (1878)
国立国会図書館デジタルコレクション

この条例によって、これまでの日常生活の中では当たり前に行われていた行為が数多く禁止されてしまった。しかし、明治5年の段階で、東京における路上に設置されていた公衆便所の数は少なく、尿意を催せば気楽に出来た路傍の立ちションが禁止されたため、必死に便所を探さなければならなくなったのである。特に江戸では古くから小便は路上で行われていたため、小便無用(小便禁止)の札が数多く掲げられていたという(注5) 。

このような状況の中で、条例が布達された同年に東京市中のいたるところに百数十個の「郵便」と「差入口」と白ペンキで書かれた郵便箱が設置されたのである。尿意を催して切羽詰まった人が、処罰を恐れて郵便箱を「差入口が付いた垂便函」と誤解してもおかしくない状況が現実的にあったのだ。

図4 中里道造 著『岩手県違式詿違図解九拾ケ条』(注4)

図4 中里道造 著『岩手県違式詿違図解九拾ケ条』(注4)

東京府下郵便と黒ポスト

上述の垂便箱と呼ばれた黒ポストは、明治5年3月に東京府下の郵便が開始されたことにより設置されたものだ。明治4年に郵便が創業されると、瞬く間に東京府下の郵便物の取扱量は増大し、日本橋の四日市郵便役所だけでは郵便物の処理が出来なくなった。そのため、築地・神田・赤坂など18か所に郵便取扱所が設けられ、これに伴い東京府内に黒い角柱形の新しいポストが百数十箇所設置されたのである。取扱所には書状集配人が二人配置され、1日に3回の配達を行うようになった。

黒ポストは、仕様書(図5)によると木品杉操抜、惣黒チャン塗、文字白ウルシとなっている(注6)。最初の仕様書には雨蓋が付けられていないが、雨を防ぐため「差人口」と書かれた雨蓋が早い時期に付けられたと思われる。前島密の「郵便創業談」にも明治5年始め東京市中の辻々に柱函が建てられ、それには白字で郵便と書いてあり、差入口の蓋に差入口と書かれている旨が述べられている。このタイプの黒ポストが「たれべんばこ」と呼ばれたポストである。

やがて雨蓋には「POST」と表示されるようになり、明治20 年7月には郵便POSTと表示されるようになる。当初、前面に郵便と表示されていたが、ここに開函時刻表が付けられるようになった。これが廃止されて「花模様入り〒マーク」となったのは明治37年からである。その理由は風雨による汚損剥離が多く、その都度貼付する手間をはぶくためであった。根石が付くようになったのは、根石のあるポストが描かれた雑誌類の年代から明治10年前後と考えられる。

しかし郵便箱の差入口の高さは約3尺、約90cmの高さにある。現代の日本人男性で身長180㎝でも股下の平均値が81cmらしいので、当時では、差入口まで届く可能性はかなり低く、郵便物が汚される危険性は低かったものと思われる。

図5 郵便集信函ノ事 郵政省 編『郵政百年史資料』第13巻 国立国会図書館デジタルコレクション

図5 郵便集信函ノ事
郵政省 編『郵政百年史資料』第13巻

「新聞雑誌」の記事と「郵便創業談」との相違

さて 、このポストに関する新聞記事と郵便創業談では若干内容が異なっている。新聞記事では「便所郵便箱」となっており「垂便箱」ではない。垂便箱という表現は郵便創業談の前島密のコメントである。差入口に届かない云々も同様に郵便創業談の記事である。新聞記事では郵便の便という文字で便所と間違えたとなっているが、郵便創業談では「紳士は之を見て郵の字の偏が垂という字である故「タレベン」と読んで郵便箱を雪隠と間違えた」となっている。

類推すると、この新聞記事により黒ポストが便所と間違われたことが広まり、前島や駅逓寮の官員の間でも話題になったのであろう。また、新聞記事の一件だけでなく、同様のことが他にも似たような話があったのではないだろうか。どちらにせよ、この条例に違反しないようにトイレを探したしたことが誤解の原因であり、黒ポストにとっては公衆トイレの数の少なさが災いとなってしまったのである。

しかし、真面目で純朴な農民の失敗とそれを許す邏卒とのやりとりは、日本人らしい道徳観を感じさせる奇談である。

江ノ島郵便局の黒ポスト

表紙:神奈川・江ノ島郵便局の黒ポスト

[1] 「郵便創業談」『鴻爪痕』前島弥、1920年、28頁、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/960730 (参照 2024-02-04)

[2] 「新聞雑誌」(明治6年2月第79号)東京市史稿市街篇第54附記「便所郵便箱」、1873年
 石田文四郎 編『新聞雑誌に現れた明治時代文化記録集成』前編、時代文化研究会、1934年、 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1224618 (参照 2024-02-04)

[3] 「違式詿違条例」[司法省]明法寮 編『憲法類編』第十九、村上勘兵衛[ほか]、1873年、 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3436805 (参照 2024-02-04)
太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第三百四十六巻・刑律二・刑律二、国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/img/1387073(参照 2024-02-04)

[4] 中里道造『岩手県違式詿違図解九拾ケ条』1877年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/794274 (参照 2024-02-04)
山崎 達雄「「違式詿違条例図解」にみる明治初期の塵芥処理事情」廃棄物資源循環学会研究発表会講演集、2020年、https://doi.org/10.14912/jsmcwm.31.0_131(参照 2024-02-04)

[5] 根崎光男「江戸の「公衆トイレ」と都市衛生」『人間環境論集』法政大学人間環境学会、2022年、140(1)-109(32)頁

[6] 「〇明治五年壬申二月二十日省議 府内各所取建候集信函別紙ノ通製造仕度此段相伺申候 『駅逓明鑑』十一第十四扁郵便ノ部ノ三 49頁」郵政省 編『郵政百年史資料』第13巻、吉川弘文館、1968. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2524478 (参照 2024-02-05)

井上卓朗さん近景文:井上 卓朗(いのうえ・たくろう)
郵便史研究会理事・学芸員(郵便史)。1978年郵政省へ入省、1983年逓信総合博物館に異動し、郵政三事業、電気通信事業に関する学芸業務に従事。2012年主席資料研究員、2016年郵政博物館館長などを歴任した。在職中は「ボストン美術館所蔵ローダー・コレクション展」などの企画を担当した。

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