日本における近代郵便の成立過程―公用通信インフラによる郵便ネットワークの形成
井上卓朗
郵政博物館研究紀要第2号(2011年3月)
(著者のご厚意ならびに郵政博物館の許諾を得て本サイトに転載しています。メイン写真は二重橋。サイト管理人)
はじめに
近代郵便制度は、ローランド・ヒル(1)の改革によって、1840年イギリスで開始された。この改革の意義は、貴族など一部の特権階級のみが優遇されていた郵便制度を、公私、身分、所得、組織、地域などにかかわらず、すべての人が低料金で平等に利用できる郵便制度としたことにある。
この改革で誕生した近代郵便制度とは、「①政府専掌による低額な全国均一料金、②国内全域の郵便集配ネットワーク、③切手などによる料金前納、④利用の平等性、この4点を兼ね備えたものである。」と定義できる。
日本においては、明治3年(1870)に駅制改革の一環として新式郵便の創業が前島密によって建議され、同4年3月1日(1871年4月20日)杉浦譲(2)の下で東京・京都・大阪間において郵便業務の取り扱いが開始される。早くもその翌年には北海道の一部を除いて全国に郵便が実施され、同6年(1873)には全国均一料金制が導入されている。
このような郵便制度の創出過程については『逓信事業史』『郵政百年史』などの正史類や樋畑雪湖(3)、高橋善七(4)、山口修(5)、橋本輝夫(6)、中村日出男(7)等多くの先行研究(8)があるが、中でも藪内吉彦(9)と阿部昭夫(10)の論考は代表的なものとなっている。
藪内吉彦は『日本郵便発達史』において、「江戸時代の通信・交通システムからの連続性」を主張している。これは、「日本の郵便制度は江戸時代の宿駅制度(駅制)における継飛脚などのシステムを再利用することで創出された。」とし、鉄道や電信などと同様に西洋から輸入された「舶来品」として捉えることに異議を唱えたものであり、現在では通説となっている。
また、阿部昭夫は、『記番印の研究-近代郵便の形成過程-』において「江戸時代までは交通・運輸と一体化していた通信が交通・運輸と分離する過程」として考察している。これは、藪内と同様に江戸時代の「駅制」からの連続性と併せて、この「駅制が更に明治期において通信、交通、運輸に分離発展していく過程で郵便が創出された。」と捉えている。
これらの先行研究は、日本における創業期の郵便制度の成立過程を明らかにし、山口修(11)において「不毛の通信史」と言わしめた状況を打破し、現在の郵便史研究の方向性を示したと言える。
しかし、近代郵便制度の定義のひとつである「国内全域の郵便集配ネットワーク」が「何によって形成されたのか」という視点からの考察は、「公用郵便」を郵便ネットワーク形成の中核として捉えた田原啓祐の「明治前期における郵便事業の展開と公用郵便―滋賀県の事例を中心として―」(12)のみであり、また、これに関連して、郵便集配ネットワークが完成したと見られる明治16年(1883)以降、そのネットワークの完成と逆行するかのように、郵便局関連施設が急激に廃止されていった経緯については、小原宏が「明治前期における郵便局配置に関する分析―千葉県の郵便局ネットワークに着目して―」(13)において言及しているのみで、これまで看過されてきた。
そのため、本稿においては、このように、まだ十分に解明されているとは言いがたい「日本における近代郵便の成立過程」において、「公用通信とそのインフラ」が郵便ネットワークの形成に大きな役割を果たした(14)と仮定して、その論証を試みる。
古来、最も充実した通信インフラは公用通信制度であった。その理由は「公用通信」が国家運営に必要不可欠であったためで、その通信網は「駅制」などによって維持・運営された。そのため、明治期の五街道を中心とした駅制改革は「政府の公用通信網」の改革であったとも言える。明治4年(1871)にスタートした「新式郵便」は、「五街道を中心とした駅制改革」後の「公用通信網」の姿であり、「公用通信インフラを民間にも開放して利用できるようにした。」と捉えることができる。
しかし「地方管内における公用通信」については、その集配対象地域が国内全域にわたるため、これらを「新式郵便の枠内」において行なうことはできなかった。そのため、各府県においては「管内のみの公用通信網」を再構築せざるを得なかった。この「地方管内公用通信網」が、明治13年(1880)以降、駅逓局と各府県との契約によって急速に郵便ネットワークに組み込まれていく。この契約とは「特別地方郵便法」である。この契約を、駅逓局が全国の府県と結ぶことによって「地方管内公用通信網」がすべて郵便に組み込まれ、全国津々浦々まで郵便集配が行なえるネットワークが完成した。
つまり、「五街道を中心とした駅制」と「地方管内公用通信インフラ」が「郵便集配ネットワーク」に包摂される過程を経て、近代郵便制度が成立することになるのである。
本稿においては、まずⅠにおいて、明治維新後の駅制改革を概観し、駅制改革と郵便創業の関係についての考察を通して、駅逓司(寮)側から見た「駅制改革と一体となった新式郵便の成立過程」を明らかにする。Ⅱにおいては、明治維新後の各府県の公用文書送達制度について考察し、それらと郵便制度がどのような関係にあり、何を契機にして一体的なネットワークとなったのかを解明する。また、その結果として「近代郵便制度」、「近代郵便ネットワーク」が成立したことを明らかにする。Ⅲにおいては、松方デフレ期における「郵便条例」の施行と、その直後に行なわれた多数の郵便局廃止を伴う経営の合理化及び構造改革について考察し、改革が行われた理由と近代郵便制度完成後に与えた影響について明らかにする。
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注
1 ローランド・ヒル1795~1879「近代郵便の父」とよばれる。
2 杉浦譲1835~1877旧幕臣(外国奉行支配組頭)、文久元年(1861)、文久3年(1863)渡欧、維新後、前島とともに民部省改正掛に勤務、駅逓権正在職50日足らずで渡英した前島密の後任として実質的に郵便の創業準備・開業を行った。
3 主な著書:『日本郵便切手史論』(日本郵券倶楽部、1930年)、『江戸時代の交通文化』(刀江書院、1931年)、『日本交通史話』(雄山閣、1937年)、『日本駅鈴論』(国際交通文化協会、1939年)
4 主な著書:『近代交通の成立過程』上下巻(吉川弘文館、1971年)、『山の郵便局の歩み』(特定局史刊行会、1952年)、『初代駅逓正杉浦譲伝』(日本放送出版協会、1977年)、『全国特定局草創記―飯島七郎兵衛と先駆者群像―』(通信史研究所、1987年)
5 主な著書『郵政のあゆみ111年』(ぎょうせい、1983年)、『郵便博物館』(ぎょうせい、1987年)、『外国郵便の一世紀』(国際通信文化協会、1979年)
6 主な著書『日本の郵便』(同盟通信社、1970年)、『日本郵便の歴史』(北都、1986年)、『行き路のしるし(前島密生誕150年記念出版)』(日本日本郵趣出版、1986年)、『逓信博物館資料図録』1~27号(1974~1983年)
7 主な著書『逓信博物館資料図録』28~43号(1983~1991年)、『郵政省逓信博物館資料図録別冊1~4』(1986~1988年)、『郵政省郵政研究所附属資料館研究調査報告書1~6』(1989~1994年)
8 最近の研究については、石井寛治「日本郵政史研究の現状と課題」『郵政資料館紀要』(創刊号、2010年)を参照。
9 郵便史研究会会長、主な著書に『日本郵便創業史―飛脚から郵便へ―』(雄山閣出版、1975年)、『日本郵便発達史』(明石書店、2000年)、田原啓祐と共著で『近代日本郵便史―創設から確立へ―』(明石書店、2010年)がある。
10 郵便史研究会初代会長、主な著書に『記番印の研究―近代郵便の形成過程―』(名著出版、1994年)、論考として「近代郵便形成過程の編成原理―運輸と通信の分離―」『郵便史研究』第1号(郵便史研究会、1995年)がある。
11 山口修「不毛の通信史学」(『日本歴史』262号、1970年)
12『経済学雑誌』第100巻第2号(大阪市立大学経済学会、1999年)
13 小原宏「明治前期における郵便局配置に関する分析―千葉県の郵便局ネットワークに着目して―」『郵政資料館紀要』(創刊号、2010年)
14 石井寛治は「三、官営郵便制度の創出による情報伝達量の激増」『情報・通信の社会史近代日本の情報文化と市場化』(有斐閣、1994年)において、「公用通信が郵便創業の先導的役割を果たし、結果的に私的通信も全国統一料金による官営郵便事業の恩恵に浴することになる。」と述べている。

木曽馬
Ⅰ明治維新後の駅制改革と新式郵便
(1)駅制改革
江戸時代の駅制(宿駅制度)は陸上における通信・交通・運輸の唯一のインフラとして幕藩体制の根幹を成すものであり、公的利用のみならず、全ての階層に多様な目的で利用され、江戸時代を通じて経済・文化の発展に大きく寄与した。しかし、公用利用者のための特権的運賃体系を伝馬助郷制によって維持していくことは、公的利用の増大と共に次第に難しくなり、幕末・維新の戦乱やインフレ等によって宿駅経営は破綻を来たし、明治維新直後の駅制は崩壊の危機に瀕していた。
明治元年(1868)五箇条の御誓文が公布され、明治政府は四民平等を掲げ、近代的な統一国家建設に取りかかった。その中心となったのが民部省改正掛である。改正掛は旧来の封建的な制度を改革し、近代国家を建設するためのいわば「明治政府のシンクタンク」であった。そこに集められたメンバーは渋沢を中心に郷純造、塩田三郎、赤松則良、杉浦譲など外国出張の経験者、欧米の事情に詳しい旧幕臣の俊英であり、そこに大隈重信、井上馨、伊藤博文などの幹部が加わって、駅制、度量衡、租税制度、貨幣制度、禄制、鉄道敷設、行政組織等の改革が論議された。
明治政府の緊急課題となっていた駅制改革を担当したのが前島密である。明治2年(1869)、静岡藩の開業方物産掛であった前島は、明治政府から民部大蔵省九等出仕改正掛勤務を命じられた。
前島が駅逓権正兼任となったのは、「駅逓司が管理する駅制の弊害を過去の体験から熟知し、その改革の方針を明確に示すことができる。」と大隈ら太政官の実力者や改正掛のメンバーに認められたからである。前島がトップとなった明治政府の駅逓司とは、水陸運輸駅路(伝馬、助郷、官員出張、官状官物の往復)を統括する役所であったが、明治3年(1870)当時は、まだ廃藩置県の行われる以前であり、五街道を管理した旧幕府道中奉行所と大差なかった。さて、駅制の問題であるが、明治政府は徐々に駅制改革に着手する。まず、物価高騰と駅村の疲弊に対処するとして、明治元年4月1日(1868年4月23日)から1年間定賃銭を6倍5割増(7.5倍)に引上げ、5月には宿駅と助郷を一体化し全国に及ぼしてその負担を平等化させようとした(15)。6月にはそれまでの宿場における「問屋」という名称を「伝馬所」に、「宿役人」を「伝馬所取締役」と改め、9月には駅逓規則を布告、翌2年(1869)正月には関所を廃止し(16)、7月には府藩県に駅逓掛を設置(17)した。さらに翌3年3月(1870年4月)には、官吏の「郵伝規則」を設けて無料通行を禁止し、利用できる人足数も制限した。しかし、宿駅疲弊の原因となった特権的料金体系と封建的な伝馬助郷制については実質温存したまま利用し続けていたため、そのダメージを払拭するには至らず、9月には駅法を再度改正し、駅と助郷を再分離、東海道宿駅の定賃銭を廃止して相対賃銭とした。また、人足定賃銭を値上げ(元賃銭の12倍)し、各駅に府県藩官員を派遣して監督を強化した。このような中、前島の陸運会社構想は始動していたのである。
(2)駅制の廃止と陸運会社の創設
それでは、前島が考えていた陸運会社創設の構想とはどのようなものであったろうか。これを知る手掛りが『駅逓紀事編纂原稿』中の「陸運会社緒原」(18)に記されている(下線は引用者)。
○陸運会社緒原
我国駅伝人馬使雇ニ公私ヲ区スハ古来ヨリス、故ニ官ニ因テ来ル時ハ雇価或ハ当ヲ得サルアルモ、駅吏甘シテ之ニ膺(あた)リ其私ニ出ルノ如ハ固ヨリ定律立法ナク故ニ伝馬所之ニ関セス、爰(ここ)ヲ以テ旅客ハ駅夫ニ貪(むさぼ)ラレ駅夫亦業ヲ争ヒ求ニ苦ム、遠路行程易キヲ覚ヘス相共ニ渋苦セリ之レ他ナシ、其駅伝ノ法立テ而モ其尽サルアルニ因レリ、然ラハ冝ク雇法自由ノ術ヲ得サル可ラサルナリ然ト雖モ、旧染(きゅうせん)伝テ衆庶馴レ嘗(かつ)テ我国法ト見傚スヲ以テ新ニ公私区別ヲ廃セントスルモ、政府是カ法ヲ設ケ以テ之ヲ駅ニ示シ協同一和ヲ得サリセハ決テ行フ能ハサラン、故ニ成否ノ如何ハ官豫シテ知ルヘカラサルナリ、然ト雖モ事ハ凡ソ尽スニ就ル然ルヲ措ハ我寮任ノ足ラサル所アルニ似タリ、故ニ曩(さき)ニ民部省ニ之ヲ議ス、省亟(すみやか)ニ容ルゝト雖モ其術策モ確乎セス只法按ヲ凝スノミ、蓋シ要スル地理物価若クハ里程ノ遐邇(かじ)ニ應シ人馬至当ノ価ヲ定メ規則ヲ最モ厳ニシテ雇法百事私トシ然シテ私ヲ制スルノ術ヲ講スノ一ニアリ、由テ立社概則或ハ倶ニ均ク密載シ駅逓司官ヲシテ之ヲ売ラシ各地方官及ヒ各駅ヘ之ヲ諭シ之ヲ説ク慈母ノ乳児ヲ教ル如シ、其公私別無ク相対雇法ヲ置ントスルモ政府裁理セサリセハ其成サルハ固ヨリ必ス、而テ之ヲ処スル均ク地方ノ任ニアリ、故ニ方法説諭ハ我寮官ニ出ルト雖モ開業准允(じゅんいん)スルニ至テハ地方諸官ノ請ヲ容レ許可与フヲ順序トス、然トモ施行ニ際シ固ヨリ可否ヲ知ル可ラス况ヤ諸道一挙ニ開ンハ其渺漠(びょうばく)ニ過ルヲ以テ恐クハ又遺漏アラン、故ニ之ヲ東海道ニ施シテ暫ク業ヲ試ンノミ後チ徐々トシテ全国ニ洽(あまね)カラシメ而テ伝馬所及ヒ助郷課役ヲ永ク免除シ下民ノ艱苦(かんく)ヲ助ントスル事此時既ニ腹稿ス、是則陸運会社ノ濫觴ナリ、然テ辛十一月始テ之ヲ開カシメタリ
「陸運会社を創設する」という前島の考えには、公用インフラの民間開放という視点がある。駅制を企業化し、収支に見合った料金を政府・民間とも平等に負担する。そのため助郷は必要としない。郵便制度の創出に際しても、駅制に付属する継飛脚のシステムを官営事業とし、官民とも平等に料金を負担するという同じ視点が貫かれている。
この駅制改革で前島が最も重要視したのは、宿駅制度を維持するために設けられた助郷制の廃止である。それまでの明治政府の駅制改革は、公的利用者の特権的利用を伝馬助郷制によって維持していくことを前提にしており、全国を流浪し、街道をつぶさに見てきた前島にとって、その前提をなくすことが最優先事項であった。
前島は自叙伝『行路のしるし』等(19)において「明治三年四月租税権正ニ任セラレ又五月駅逓権正ニ兼任セラレタリ、当時駅逓司ハ専ラ諸道ノ駅制ヲ掌り兼テ東西京大坂ノ間ニ官状官物ノ往復ヲ管理セリ、余ハ少年ヨリ諸道ヲ往歴シ古ヨリ駅法ノ善カラサル伝馬助郷ノ弊害アル其惨苦ナル実況ヲ目撃シ深ク痛歎(つうたん)セルヲ以テ何トカ之ヲ拯スクフ策モカナト会テ論セシコトモアレハ此兼任ノ命ヲ拝シ独り自ラ喜ヒタリシ」と語っている。
このように前島にとっての駅制改革(20)は、崩壊しつつある宿駅制度を支えていた助郷の農民の救済であり、具体的には陸運会社創設による助郷制廃止であった。また、助郷を必要としない陸運会社は今後の郵便制度の展開において必要なインフラのひとつであった。
明治3年5月12日(1870年6月10日)民部・大蔵両省の合議によって「宿駅人馬相対継立会社取建之趣意説諭振」(21)が決定され、明治3年9月10日(1870年10月4日)駅逓司の山内駅逓大佑・五嶋駅逓少佑・真中駅逓少佑・中西駅逓少佑が、東海道各駅の担当者へ陸運会社設立と郵便開業の説明のため出発した。『正院本省郵便決議簿』(22)には、「第弐東西両京并大坂間郵便新式法取建可相成ニ付本司山内大佑外三人巡回ニ付取扱振諸件伺并府藩県え達し按及ひ陸運会社取建説諭振共」として、「別紙御決議之上山内駅逓大佑始外三人之者え巡廻被仰付候処、尚書状郵便之方法見込も有之建言仕様ニ付、右御採用之有無御決議ニ随ひ可致巡廻積遅延罷在候処、夫々御了解之上追而御下知可有之趣ニ付而者外御用筋も其ため遅延致候義ニ付速に可為致発足、依之諸件取扱振其他府藩県御達案共取調此段相伺申候」とあり、郵便創業の太政官決裁を待って出立したことがわかる。
東海道の各宿駅において、これらの準備を担当したのは、府藩県の駅逓係員と伝馬所(旧問屋場)の宿役人であり、同年閏10月6日(1870年11月28日)より3日間滋賀県の大津県庁、10日より5日間京都の大蔵省別局において巡回した駅逓司官員との会議が行われた。『正院本省郵便決議簿』によると「一、駅々相対人馬会社取建方之義此度巡駅之者趣意可致説諭候得共、万一是を誤解致シ又不思之弊害相生シ候様之義も可有之候而者不都合ニ付、概略其趣意別紙之通書載いたし是を以指示可致積」、「一、郵便新式之方法政府御下知無之内ハ兼而相伺申候諸件断然と表発難仕候間、別紙説諭振并時間表之両条を以可申談積ニ御座候事」として「陸運会社取建説諭振」「郵便法説諭振」により陸運会社及び郵便創業の趣旨説明を行なっている。このように郵便創設準備と併せて行われた駅逓官員による巡回等の後、翌4年5月(1871年6月)に陸運会社規則案が各宿駅に示された。
前島が帰朝し駅逓頭に復帰すると駅制改革の動きは加速する。明治4年12月23日(1872年2月1日)東海道筋に陸運会社の設立を許可する旨関係府県に布達され、明治5年1月10日(1872年2月18日)東海道各駅陸運会社が創業された。これに伴い、伝馬所は廃止され、助郷も廃止された。宿駅に出張していた府県駅逓係員は引き揚げとなったが、継立を行なう18の宿駅には、新たに郵便御用のための駅逓寮官員が配置され、その指導監督を行なった。
伝馬所で行なっていた郵便業務は、新たに設立された陸運会社へと委託された。しかし、これは伝馬所が陸運会社という名称となり、そこで取扱っていた郵便業務がそのまま引き継がれたということであって実態は変わっていない。最も大きい変化は助郷が廃止されたことである。これは、官設の伝馬所が私企業となり相対賃銭となったことによって、官営時代の宿駅の特権的利用が廃止されて達成されたと言える。
その後郵便の全国実施と期を一にして、東海道宿駅と同様に全国各街道・脇往還で宿駅の陸運会社化が実施され、明治5年7月20日(1872年8月23日)全国諸道の伝馬所と助郷を8月末日に廃止することが布告された。
古来より施政者によって作られ、封建的秩序によって運営されてきた駅制(宿駅制度)は終焉を迎え、新たな通信・運送の歴史が幕を開けたが、前島はこのことを「其事本邦ノ史上ニ就テハ甚タ重大ノモノニコソアル、此改革ノ時ニ方リ内ハ官吏ノ旅行不便ヲ鳴ラスアリ外ハ宿駅衰頽ヲ訴フルアリテ甚タ苦辛モ多カリシ、去レド近クハ古昔ヨリ酸毒ヲ極メシ助郷法ヲ廃シテ大数人民ノ苦ヲ拯ヒ、遠クハ船車ノ便ヲ開キ物貨ノ運輸行旅ノ装具皆一変ノ時運ヲ来タシ、終ニ爾時(そのとき)ノ景状ヲナスハ国家ノ利ナリト知ル人ハ僅々(きんきん)少カリケリ」(23)と語っている。この当時「郵便の創業」と同様に「伝馬助郷の廃止」という歴史の転換点を通過したことに気付いた人は少なく、その意味するところを理解していた人は稀であった。
ともあれ、前島の目指した駅制改革の悲願のひとつであった助郷の廃止は達成されたが、その後の運送業の育成・近代化の過程は旧弊を破るための困難が伴った。陸運会社は、宿駅の伝馬所から国家の保護された陸運の民営会社として、各宿駅単位で貨物輸送を行う会社を目指す予定であった。しかし、駅逓寮は、同年7月(1872年8月)頃から東海道の陸運会社は旧来の悪しき因習から脱却できていないとして、定飛脚から起こった陸運元会社との合併を積極的に奨めるようになった。また、駅逓寮は同年9月(1872年10月)頃から郵便取扱所を陸運会社から分離して独立させている。そして、明治6年(1873)6月27日には物貨運送業(飛脚)の個人私営を禁じ、その営業は「陸運会社に入社または改めて駅逓寮の認可を受けるべし」と布告(太政官)、ついに各地の陸運会社は明治8年(1875)4月30日の内務省布達により解散させられ、内国通運会社(陸運元会社を明治8年(1875)1月改称)が全国の陸運を総括することになる。

(3)陸運元会社と輸送ネットワークの形成
郵便創業と駅制廃止は日本の運送業に大きな影響を与えた。駅制改革は日本の運送業、旅客業を成り立たせていた街道と宿駅の機能を根本から覆す構造改革であった。とりわけ維新後も明治政府から公用逓送を請け負うことで宿駅人馬の特権的利用を許されていた定飛脚問屋等は大きな影響を受けることとなった。
明治2年(1869)、明治政府は定飛脚、三都飛脚問屋に対し准定賃銭での駅馬徴達を廃し、相対賃銭によることを通達した。これに対し、飛脚問屋は相対賃銭を1里に付き銭1貫文としたが、これによって書状逓送料金は高騰した。明治3年(1870)郵便創業が立案されたことを知った飛脚問屋は、さらに大きな痛手を蒙るとして、明治3年10月(1870年11月)に関西の、同年11月(1870年12月)には東京の定飛脚問屋が郵便創業の撤回を求める嘆願書を提出したが、当然のことながら却下されている。
そのため、和泉屋の吉村甚兵衛を中心に京屋、嶋屋、山田屋、江戸屋の5者で会社規則を作、同年12月2日(1871年1月22日)「定飛脚陸走会社」(24)を開業し、郵便創業に対抗する姿勢をみせた。定飛脚問屋5者の支店、関連の飛脚取次所は全国に展開しており、そのネットワークは創業当時の郵便制度を遥かに凌駕していた。
郵便の全国実施と駅制廃止とを直前に控えた明治5年4月(1872年5月)、前島は陸運業の育成と飛脚業の今後の打開策として、郵便取扱所の物品・官金輸送等の郵便御用を定飛脚業者に委託する案を省議にかけた後、和泉屋吉村甚兵衛の名代佐々木荘助を召喚し、近代郵便制度の原理を説諭するとともに駅逓司の下での陸運業の近代化を求めた(25)。『駅逓紀事編纂原稿』によると「是月、定飛脚商売吉村甚兵衛等五名、陸運元会社ヲ企ツ、曰、官既ニ郵便ニ厳規ヲ置ケリ、然ルヲ我輩、業ヲ依然存スル時ハ私利ヲ以、公挙ヲ犯スノ罪ヲ如何ン、而テ、官曩ニ陸運法ヲ開クニ際シ懇々説諭ノ旨ヲ奉ス、渥恩(あくおん)亦那ソ比セン、抑、陸路物品運輸ノ法タル我業体ノ素志ニシテ、毫モ猶予スヘキニアラス、仍テ、速ニ遣物公私ヲ区分シテ諸国同商協議ヲ尽スニ、或ハ誤解シ或ハ異論シ、甚シキハ我ニ逸シテ業ヲ政府ニ乞ントス、奸狡(かんこう)憎ムヘク亦恐ル故ニ請フ、官速ニ陸運元会社ノ許可ヲ下セヨ、然ラハ諸道陸運会社卜協同相議シ、公私ノ荷物及ヒ物貨ノ輸業ヲ開カン、其根軸ニ至テハ一ニ政府ノ保護ヲ仰クト」して、6月に陸走会社を母体とした陸運元会社が設立された(26)。そして、陸運元会社は駅逓寮の保護の下に各駅陸運会社を合併して、運送請負業から自前の輸送手段を確保した近代的運送企業へと脱皮していく。
『郵政百年史』が言うように、佐々木らは前島の意思や政府・駅逓寮の強い権限に屈服した(27)のではない。
前島の佐々木荘助の能力に対する評価は非常に高い。佐々木が企業家として近代郵便制度と近代運送業というものを理解し、当時としては郵便より大きなネットワークを持つ定飛脚の「陸走会社」が国営郵便と手を組み、駅逓頭の特権により定められた会社規則を持つ「陸運元会社」となることで、「日本初の近代的な運送会社として大きく飛躍できる」と判断したからではないだろうか。
前島は、このような佐々木を「運送会社の近代化を託せる人物」として評価したのであろう。これは、前島が海運業における岩崎弥太郎に与えた評価とその後の海運行政のあり方に酷似している。
明治5年6月(1872年7月)陸運元会社設立が許可されると、駅逓寮は、7月2日(1872年8月5日)の寮議により、陸運元会社への加入を積極的に奨める文書(28)を各府県に送達した。
それを受けて佐々木は、さっそく東海道の各陸運会社を巡回し、陸運元会社への合併を働きかけた。その結果は、「元会社新定ノ例規ヲ承諾シテ真ノ商会ニ化スルモノハ僅ニ品川、藤沢両駅ノミ、唯其聯合ヲ諾シテ以テ他日ノ改正ヲ約スルモノハ興津、江尻、静岡、丸子、藤枝、島田、御油、赤坂、藤枝、鳴海、福田、前ヶ須、土山、水口、石部、草津ノ十六駅ノミ、其他各駅皆模糊ト子其旧慣ヲ恋眷シ、共ニ語ルヘキニ足ルモノ少ナシ、元来旧伝馬所ニ従事スル輩ハ多ク其財産ニ乏キヲ以テ更ニ各駅ニ令シテ名望財産アルモノヲシテ共ニ此商会ニ結合シテ以テ陸運改正ノ実ヲ挙ン事ヲ請フ」(29)という状況であった。その後、11月12日に岡崎・池鯉鮒・藤川・赤坂・御油・豊橋・二川、同25日に亀山・関・坂下の各駅陸運会社との合併が報告(30)されている。
前島は佐々木との約束どおり、明治6年(1873)には「三月二十四日、本年四月以降陸運元会社ヲシテ郵便御用駅逓寮ト署記セル符牌ヲ以テ各道郵便役所ニ交付スル脚夫賃銭郵便票及ヒ通貨封入ノ各信書ヲ逓送セシメルヲ申達(第四十三号(31))ス」(32)として、4月から金子入り書状の逓送・配達、駅逓寮から各郵便取扱所への郵便脚夫賃銭・郵便取扱所への御手当金・郵便切手の輸送、各郵便取扱所から駅逓寮への郵便切手売却代金の輸送を陸運元会社へ請負わせている。金子入書状(郵便条例以降は貨幣封入郵便)の陸運元会社(内国通運)への委託は、明治33年(1900)10月1日に郵便法が施行されて、この制度が廃止(33)されるまで継続した。
陸運元会社がこの郵便制度の兵站ともいうべき業務を円滑に行うためには、地方公用郵便の半額制導入後に予定される大幅な郵便取扱所の新設に対応する運送ルートと運送手段の確保が非常に重要となる。陸運元会社単独の勧誘だけでは急速な陸運の再編は行えないと考えた駅逓寮は、明治6年(1873)6月27日に、太政官布告第二百三十号によって物貨運送業(飛脚)の個人私営を禁じ、「その営業は陸運元会社に入社、または改めて駅逓寮の認可を受けるべし。」と布告(太政官)(34)し、陸運元会社を中心とした陸運の全国ネットワークを構築していった。大蔵省沿革志には「従前飛脚ト称シ貨物ヲ運輸スル営業者ヲ停止シテ陸運元会社ニ併合シ若シクハ駅逓頭ノ准許ヲ請ハシム」(35)として、「布告第二百三十号ニ曰ク従来飛脚ト称シ貨物ヲ運輸スルヲ以テ営業ト為ス者素ト一定ノ規則ナキノミナラス且準備ノ資本モ亦充実セス、漫ニ危難罹ル弁償等ヲ承諾シ通貨物品ヲ運輸セルモ往往過当ノ運賃ヲ貪取シ或ハ稽滞(けいたい)遺失ノ患ヲ生スル有リ、因テ本年九月一日ヲ限リ私ニ物貨運輸ヲ営業ト者ヲ停止ス、自今陸運元会社へ併合スルカ或ハ規則資金等ヲ詳明ニ具申シ管轄庁ノ検査ヲ経テ駅逓頭ノ准許ヲ得ヘシ」と解説している。
増田廣實によると、「陸運元会社は、この布告第230号を武器にして、この布告の出された6月中に各地に社員を出張させ、出張店・会社・取扱所等の名称の下に傘下3480店を全国各地に開店させることに成功した。この成功をうけて政府内部でも各駅陸運会社解散の意見が次第に高まり、ついに明治8年(1875)5月末日を限りに各駅陸運会社を解散した。そして、同年2月内国通運会社と社名変更を行った陸運元会社は、鉄道諸貨物の取り扱いを含め、全国陸運を総括する地位に立った。」(36)としている。
陸運会社は、明治8年(1875)4月30日「内務省布達(甲七号)諸道各駅ニ於ケル陸運会社ノ儀ハ、多クハ官ノ誘勧ヲ以結社候ヨリ、往々私会ノ体裁ヲ失シ不都合ニ付キ本年五月三十一日限リ総テ可申付、此旨布達候事。但シ本文解社ノ後ハ駅村ニ不拘其地ノ都合ニ因リ人馬継立ノ稼業致度旨願出候ハヽ其官庁於テ調査ノ上允許可致尤賃銭ノ儀ハ物価ノ昂低道路難易ニ因リ時々変更可有之候ヘトモ予其制限相立且通常ノ額ヲ査定可致事」によってついに解散、内国通運会社が全国の陸運を総括することになった(37)。
藪内は、『近代日本郵便史』において、「陸運会社」を「郵便線路の全国的普及にともなって、それに対応できる継立会社が必要であったが、駅逓寮が育成につとめた陸運会社社は当初の期待に反して私企業として発展しなかった。(中略)悪弊から脱しきれず全国的な陸運会社として発展する見込みはなかった。(38)」と評価しているが、「悪弊・旧弊を脱しきれないから」という陸運会社の廃止理由については若干疑問が残る。
伝馬所から生まれた陸運会社は少なくとも郵便創業の立役者であったはずである。郵便取扱人となった者だけが開明的でそれ以外の者がそうでなかったとは考え難い。また、駅逓寮が陸運会社の廃止を考え始める時期が早すぎるのである。宿駅制度が廃止され、全国に陸運会社が創設されるのは明治5年8月(1872年9月)である。
駅逓寮が陸運元会社への加入を奨める文書を東海道の各府県に送達したのは、それより前の7月であり、その文書の中に「昨年来開業候各駅陸運会社之儀者、唯旧伝馬所之面目を一変いたし候迄ニ而、真之私会ニ無之、到底成立之程も無覚束者ニ付、猶一改正之法も可有之と夫是評議中」として廃止を窺わせる文言が含まれている。このことは、「全国に陸運会社を創設する時期に、既に東海道筋の陸運会社の廃止を考えていた」ことになる(39)。
「陸運会社の廃止」が実際に上申されたのは明治6年(1873)4月であった。同年12月にも上申された(40)が、この時点までは認められず、陸運会社の廃止が決定されたのは明治8年(1875)4月であった。
このように、「陸運元会社」が創立間もない段階で、「陸運会社」の廃止が検討された理由は、陸運会社という組織の根本的な成り立ち、若しくはその体制に内在する旧弊から逃れられない問題があり(41)、そのため、近代的な企業形態を持った運送会社である「陸運元会社創設と対」で「陸運会社の再編」が考えられたためではないだろうか。
つまり、「伝馬所から誕生した陸運会社を個々に近代化させるより、陸運元会社の支店とすることで短期間に全国の陸運業の経営形態の近代化を図ろうとした。」ということであろう。
さて、その後の陸運元会社であるが、明治12年(1879)には明治6年(1873)の太政官布告第230号が廃止となり、運送業の自由化が図られた。そのため、各地に各種の運送会社が設立され競争が行われるようになった。明治14年(1881)吉村甚兵衛の後を襲って佐々木荘助が社長となった内国通運会社は、同24年(1891)元請業務の入札に敗れ、明治5年(1872)の前島との出会以来共に築き上げてきた郵便輸送の業務を日本運輸会社に奪われることとなり、佐々木荘助は、明治25年(1892)経営不振の責任を感じてか拳銃自殺を遂げている。「彼は稍々気力あり識量ある好男子」と評価していた前島は、「鳴呼星移り物換れば昔時の情も稍く滅尽するは世事皆然らざるなしとは云ひながら知らずニ十四年内国通運の状態に対し帝国郵便は如何なる眼を以て之を観たるが故社長佐々木荘助氏の終焉は余之を語るに忍びざるなり。」と『帝国郵便創業事務余談』(42)でその胸の内を吐露している。
(4)郵便創業の準備
新式郵便による郵便創業は、前島による駅制改革の成果のひとつであるが、当初、伝馬助郷制の廃止と陸運会社の設立計画は郵便創業の計画より先行していた。しかし、前述のとおり、「駅制を全廃し官私を問わず平等の賃金を払って人馬を利用するという抜本的な改革」は、「官吏や諸駅の反抗が多く、廃藩置県実施以前の明治3年の状況では恐らく政府の許可は得られない」として、陸運会社の設立準備のみに留めている。
前島は、郵便創業を公用状の飛脚賃銭支払の回議文書から思い立ったとされているが、正確には「明治政府を説得できる郵便創業に必要な財政的裏付けを見つけた」と言うべきであろう。伝馬助郷制の廃止については、その時点で政府を説得する材料が無かったため、陸運会社創設のための事前準備のみを行ったが、郵便創業については、この資金によってまさに埋蔵金的な財政的裏付けを得ることができたのである。前島が試算した東西両京発両便の合計経費は286貫220文である。一日の上り下り書状数を300通と予想し、1通の原価を954文と計算している。郵便料金は東京より大阪迄が1貫500文、西京迄が1貰400文とした。沿道街道筋宛の書状の予想通数は100通であるが、この分については原価算定の際に算入していないため、この収入は全額収益になると考えている。
前島はこの事業の名称を「郵便」と名付け、明治3年6月2日(1870年6月30日)に「郵便創業の建議」を行い、9月1日決裁、同月10日から駅逓司官員による開業準備のための巡回が行なわれた。

(5)新式郵便の開始
杉浦譲は前島の郵便創業の構想を着実に実行に移し、新式郵便をスタートさせた。明治4年正月24日(1871年3月14日)に郵便の創業が布告され、「継立場駅々取扱規則」「各地時間賃銭表」「書状を出す人の心得」などが公布された。そして明治4年3月1日(1871年4月20日)、東京・京都・大阪の三都市に郵便役所を設け、三都府を結ぶ東海道の各宿駅の伝馬所内に郵便取扱所が設けられて郵便が始まった。
東海道宿駅に設置された郵便取扱所は62か所で、伝馬所の一隅を改装し郵便取扱所とした。責任者は、伝馬所を管轄する府藩県駅逓係からの出張地方官員(43)で、府藩県の出張官の推挙による宿駅の元締役、年寄役、書記役、人足方などが郵便事務を行った。
大阪郵便役所では、地域別の差立や配達区分など信書の取り扱いに精通した定飛脚の手代を官員に雇って業務を行った(44)。金沢の江戸三度飛脚村松家10代・村松直松を駅逓方手代に採用した(45)のも民営飛脚の具体的な作業方法のノウハウを学ぶためであったと考えられる。
明治4年7月15日(1871年8月30日)には、開港場として通信量が多く、飛脚業者の独壇場であった横浜に、郵便役所を設置している。東京との直通定期便を開設し、金子入書状の取り扱いも別仕立便により開始した。また、横浜から、輸出品の生糸や織物と関係の深い横須賀、八王子、桐生などへ1里ごとに600文の別仕立便を開いた。東京・横浜間の午前9時発の並便は248文(8月から48文、朝晩2便)、同区間の別仕立便は逓送速度(金子入の場合は金額により付加額あり)、横浜から各地への別仕立便は里程による距離制という、東海道郵便とは違う料金体系となっている(46)。
8月には、畿内、南海、山陽の各道への郵便物の取り扱いを大阪の相場飛脚問屋(堺屋喜十郎・万屋喜兵衛・大和屋庄兵衛)に請け負わせて、大阪以西は下関、以南は四国の宇和島、紀州の田辺まで延長した。大阪以東から差し出す書状は、大阪までの料金に大阪以西賃銭表の料金を加えた額の切手を貼付すればよいことになった。大阪以西へは毎日大阪到着の翌日に差し立てるが、以南は月に4~6日ほど差立の休日があるとなっている。相場飛脚問屋による請負のため、新たな郵便役所等は設置されなかった(47)。
帰朝した前島密が8月17日(1871年10月1日)には駅逓頭に復帰、欧米で新たに得た知識をもとに29日には「郵便の全国実施と信書逓送の政府専掌」について太政官に稟議している。
12月5日(1872年1月14日)、大阪以西長崎までの郵便線路が開通した。長崎までの開通を優先したのは、6月にデンマーク大北電信会社の上海・長崎間海底電信線が完成し海外との電信が可能となったため、早急に東京までの通信を確保する必要があった(48)からである。同日、「最初の郵便規則」が施行され、郵便料金は距離制となり、日誌・新聞紙、書籍等の取り扱いが開始された。相場飛脚による大阪以西の郵便取扱開始時とは違い、長崎に至る街道、枝道には郵便取扱所が設けられ、長崎と神戸に郵便役所が設置された。料金は25里以内、50里以内、100里以内、200里以内、200里以上の5段階で種類別、重量別に設定された。たとえば東京・大阪間の書状1貫500文が400文(200里以内)となるなど創業時より低料金化された。書状の重さは11月の駅逓寮達では2匁単位となっていたが、12月に4匁単位に改められた。新規の日誌等の料金は書状より低額に抑えられているが、その料金で利用するには駅逓頭の免許が必要であった。
12月には、福井県(足羽県)から「越前国より加賀、越中、越後の諸国と、近江国を経て京都・大阪の二府に達する信書逓送を郵便施行までの間、仮規則をもって行ないたい。」という申請があり、許可されている。同月21日には、横須賀、浦賀、松輪、三崎への郵便線路が開通、横浜・横須賀間は汽船で運送された。郵便創業の明治4年中に開設された郵便役所・郵便取扱所は、東京以西に180局であった。
明治5年(1872)になると、郵便の全国実施のための準備が急ピッチで行なわれた。同年3月1日(1872年4月8日)には、郵便取扱量の増加に伴って東京府下に朝昼夜1日3度の配達が開始され、新たに郵便取扱所が18か所、書状箱は150か所に設置された。また、前年の12月19日(1872年1月28日)に旧銅貨の価格が改定(49)されて新貨との交換が開始されたため、明治5年1月20日(1872年2月28日)に48文を半銭、100文を1銭として郵便賃銭を改定した。新貨幣単位の切手(竜銭切手の半銭、1銭、2銭、5銭)が発行されたのは同年2月(1872年3月)であった(50)。
(6)郵便の全国実施
明治5年3月(1872年4月)郵便の全国実施に備えて「郵便規則」(51)が改正された。この郵便規則の冒頭には日本が目指さなければならない近代郵便のビジョンが高らかに謳われている。これは前島の郵便構想そのものである。ここから読み取れるのは、日本郵便を欧米列強の郵便制度と同等と成すため、先ず郵便を全国に実施し政府専掌により均一料金制を実施する。近代化された郵便によって国内の通信主権を回復し、海外と対等な通信の道を開くことで日本の文化や産業を振興しようとしていることである。そのため、郵便の全国実施のみならず、郵便の均一料金制導入、海外との郵便条約締結へ向けての布石が打たれている。また、この改正郵便規則には「在日外国郵便局」を利用する「海外郵便手続」が定められており、不完全なものではあるが、ひとまず「海外への通信の道」が開かれた。
明治5年(1872)における郵便の全国実施に向けての取り組みを見てみよう。同年3月4日(1872年4月11日)には、全国実施に伴う郵便事務取扱のために使府県の官員1名を兼務させるよう指示が出され、4月4日(1872年5月10日)には郵便事務の内容が定められた。この使府県に設置された郵便掛は郵便局の全国展開に大きな役割を果たすことになる。
5月7日(1872年6月12日)には品川・横浜間に鉄道が開通し、郵便の鉄道搭載が始まる。それに合わせて、5月22日(1872年6月27日)には郵便規則が改正され、6月1日(1872年7月6日)から東京・横浜間の書状逓送は5往復(うち夜便は脚夫便)となり、同区間の民間(飛脚)の書状逓送は禁止された。これは鉄道を使った新たな飛脚逓送の誕生を阻止する目的があった(52)。また、飛脚との競争が激しい地域だけに、無用な混乱を避けるため、郵便が政府専掌となる前に先行して実施されたとも考えられる。
6月(1872年7月)には、郵便を全国に実施するにあたり、使府県に対し「信書不達の地がないようにすること」として布達された。そして全国に郵便を開設することが太政官で裁可され、7月1日(1872年8月4日)から郵便制度が全国に実施された(53)。これに伴い、18日(1872年8月21日)には、「自今各省府県ノ公文ヲ発送スルハ総テ郵便ニ託付セシム但速逓ヲ要スル者ハ特ニ脚夫ヲ以テ発送セシム」として、中央官庁から使府県宛の御用状(公用文書)は郵便で差し立てることとなった。
(7)街道を中心とした郵便局の設置
郵便取扱所の設置は、上述のとおり郵便の創業準備期から全国実施期まで、駅逓司、駅逓寮の官員が各地を巡回して行った。長崎へ延長の際は、摂津・播磨が山内大属、安芸・周防・長門が真中権中属、備前・備中・備後が中西少属、豊前・筑前・肥前が戒能権少属、長崎での諸準備は根立中属がそれぞれ出張して行なった。
明治5年(1872)の郵便の全国実施の際も、駅逓寮官員総出で出張し開業準備を行なっている。正月18日(1872年2月26日)の省議(54)では、「東京以西以南の郵便は粗方整ったが、東京以東以北の国にも速やかに郵便を開かなければならない」として、「東京以東以北の街道の状況調査及び使府県の官員への指導と伝馬所の廃止、陸運会社取立の方法の指導も兼ねて巡回を行なう」ことを決定した。駅逓寮における郵便の全国実施とは、「郵便未実施地区である東京以東・以北への郵便線路の延長」という認識であったということであろう。官員の巡回コースは郵便取扱所開設予定ルートであり、3月10日(1872年4月17日)各ルートに諸官員を派遣することが省議(55)で決定され、使府県へ通知された。
駅逓寮は、この巡回に先立ち郵便開設指導用の口達書(56)を作成し、使府県の典事担当職員の内1名を郵便担当(57)として兼務させ、この内容に沿って事前調査を行い、駅逓寮官員が巡回した折には諸般協議するよう指示している。この口達書には、①地域の商業等の模様により郵便の利用頻度を想定し、逓送を月に何回行なえばよいか予め調査しておくこと。②脚夫に支払う賃銭額を距離、夜間逓送等などの条件で詳細に調査しておくこと。③本街道、脇往還とも各宿駅に身元確かで仕事に精励する郵便御用取扱人を選定しておくこと。④往還筋でなくても、分庁、市場などがあり郵便を必要とするところには郵便御用取扱人を命じておくこと。⑤すべての郵便御用取扱人は近傍在村へ多く往復する便宜のある業体の者を選定すること。但し飛脚渡世の者は除外すること。⑥郵便御用取扱所は取扱人の自宅、或は将来陸運会社となる予定の場所を使用すること。⑦取扱人に改正郵便規則を事前に配布し、熟読させその内容を理解するよう指導すること。等々が記載されている。
この中で③④⑥から郵便取扱所は基本的に街道筋の宿駅に配置される事を前提にしていることがわかる。⑤は郵便取扱人の選定の際、本業において近傍在村への幸便ルートを持っている人物を選ぶよう指示しており、宿駅からの配達は幸便に依存することを前提に郵便の全国実施を行っていることがわかる。
宿駅に郵便局を設置する際、前島は「地図ヲ開キテ本支両線ノ結合ヨリ置局ノ位地ヲ按定シ(始メ郵便局ヲ置クヘキ地形ヲ定ムルハ経費上ニ於テ肝要ナル事項ニテアリシ今ニシテ到処ノ市街ニハ必ス局アリト云フヘキ景況ヨリ之ヲ見レハ何ノ苦シムコトカアルヘキ)」というように地図を見ながら設置場所を決めているが、その地図とは「浪華講道中記」(58)であったという。

(8)全国実施時の下総国の状況
全国実施時の各地の状況はどのようであったのだろうか。下総国については我孫子宿名主小熊甚左衛門が記録した「郵便並陸運会社御用留明治五年壬申年三月」「郵便御用留明治六癸酉年一月一日」に詳細が記録されている。この史料を基に田辺卓躬が全国郵便実施期の下総国の状況を『下総郵便事始』(59)に詳しく紹介している。
下総国の郵便創業は、陸羽道中千住駅より水戸通陸中岩沼迄と房総一円を巡回した、駅逓寮出仕小田直方が担当した。この「御用留」によると、小田は陸羽道千住から松戸を経由して明治5年3月14日(1872年4月21日)我孫子宿に到り、印旛県駅逓掛十二等出仕真野順美が対応している。この時、郵便取扱所開設地の取扱人予定者は、郵便取扱所開設と伝馬所廃止の請書を駅逓寮巡回掛に提出し、小熊は3月15日(1872年4月22日)印旛県から「郵便御用取扱人」を命ずる旨の辞令を受領している。
印旛県では全国郵便実施前の6月22日(1872年7月27日)郵便取扱人を県庁のある葛飾郡加村に呼び出し、次の指示を与えた(60)。
一、郵便御用取扱人え示書
今般郵便てふものを被開、
御国内は四方の極まて所として書翰の往復せざるなきやう広く御世話之ある
御趣意は郵便規則の巻について拝誦して又解得あれば敢而筆せぬと斯者上下の便利を置るるの幸は聞もの雀躍せざるはなし、随て其方共に右の御用取扱を命し下これ未曽有の役に付大切に心得て発起をあやまり指笑をのこさざる様配意いたし、信書を差出す人に善悪の扱振なく不深切の粗漏は更になきを旨とし可申、一人の落度の一人而己と見效(ママ)されば全国一般え差響き便途の障碍となるものなれば、已に郵便の二字に拘はり其害は大なるべし、故に能く其職を尽して不倦不怠を要す、犬は夜を護り鶏は暁を告く、鳥獣てすら職を尽す、况や萬物の霊なる人におゐて其職を尽さずんばあるべからず、事務の挙ると挙らざるとは少しの配意によれば御発行の其日より一期を待ず管下の人民便利を唱をふる声の囂(かしがま)しきをきかまほしく精々可有勉励もの也
壬申 六月 印旛県
二、郵便道案内
今度御国内一般に郵便を開かれ、近ゐ国々わいふへくもなく、とうき国の村さとや御国を離れる土地にても、亜細亜わおろか欧羅巴亜非利加洲のはてまでも文の通わぬ地とてはなく、広く御世話あるといふわほかならす、御国の人民御布令ことをよくよく守り、互に信書を往復し四方に起るよろつの情実かたちのかけよりも早くしれ、互に便利を達し互に其幸を祈り、士農工商各其分を尽し銘々の業につゐて骨を折り、天理人道に従てたかひの交を結び、憂楽を同して千里の遠きに離れ住むもー区の近きに住むかく(ママ)(如か)、自由自在をなさしめん手引は郵便なるべし、是迄親子十里或は二十里とはなれて稼き暮す時、親子兄弟姉妹たち年始の祝祠や夏冬の暑さ寒さを尋ねたく思ひたちても、脚夫賃高ゐか身には及ばねばおもひをはたす時やなく、つゐに無音となれるものなれば、より親子の情薄く他人によつて事をとり、これ人情か違ふゆへ親子喧嘩や口争次第に兄弟不和となり、したしき友を笑ひたり夫婦別れするやうになるもならぬも便にあると深く御憐察のある事にて、書翰の目方四匁なれば二十五里まて一銭なり、二十五里より五十里までは是又わつか二銭、かかる低価に便を得るは、さて有かたき御鴻意にて、たとへ如何なる貧客も年に二三度急の事報合ぬといふことなくことの欠たる憾みなからしめむとの御趣意なれは、おのおの能々この理を解して、郵便切手といふものは人々常に懐中して急の便を欠かぬやう心懸たきものに候
壬申六月(木下町吉岡家文書)
郵便取扱人は、この「郵便道案内」を「近傍在村小前の者に至るまで周知すること」を命じられ、我孫子宿の小熊はこれを「廻状」により管轄の33カ村(現在の我孫子市、柏市のほぼ全域)の村役人へ周知している。
さて、下総国の郵便取扱人は、駅逓寮巡回官員の口達書の⑤「すべての郵便御用取扱人は近傍在村へ多く往復する便宜のある業体の者を選定すること。但し、飛脚渡世の者は除外すること」に対して、それに該当する人選であったのだろうか。田辺の調査をまとめると次のとおりとなった。

これによると、郵便取扱人の代名詞となっている名主や宿駅に関連した本陣・問屋等の運輸・旅客業が多い。しかし、農業や酒造・醸造も多く、郵便創業時の東海道の郵便取扱人よりも幅広い職業となっている。また、取扱人の年齢が比較的若いのも特徴である。
(9)均一料金制導入と政府専掌
明治6年(1873)3月10日、均一料金制の実施と郵便事業を政府専掌とする太政官布告が出された。その内容は、4月1日より、郵便賃銭の名称を郵便税と改称すること、一定の重さの信書は遠近を問わず国内は同一料金とすること、5月1日より、信書の逓送は駅逓頭の特任とし、何人を問わず一切の信書逓送を禁止すること、その禁を犯した者は罰則により処分する等となっていた。この布告を受け「明治六年改正郵便規則」「郵便犯罪罰則」が公布された。
明治6年(1873)の全国均一料金制は、書状一通2匁(7.5g)までごとに、距離の遠近に関わらず、国内2銭、市内1銭、不便地3銭の3本立て料金体制となっていた。
なお、市内・不便地を含めて完全な均一料金になるのは、明治16年(1883)になってからである。また、信書逓送の政府専掌に関しては、罰則規定によって定飛脚や市中飛脚など江戸時代からの飛脚の営業は禁止されたが、地域行政の公用通信や速達が求められる相場飛脚など、郵便の力の及ばない部分においてはその信書逓送を一部認めるなど不完全であり、まだ近世からの継飛脚から引き継いだ新式郵便の域を脱するものではなかった。
しかし、均一料金制の実施によって距離による複雑な料金体系から脱却したことで、郵便はより一層利用しやすくなり、郵便の全国展開へ向けての大きな一歩を踏み出した。また、郵便が全国実施された明治5年(1872)以降は郵便取扱所の数も増加(明治6年(1873)末1,501か所)し、外国人の多く居住する三府(東京・京都・大阪)五港(函館・新潟・横浜・神戸・長崎)に郵便役所を設置することで、対外的にも均一料金制とともに日本の郵便制度を喧伝することができた。アメリカとの郵便交換条約の交渉を明治6年(1873)に開始できたのもこれらの影響が考えられる。明治8年(1875)に郵便役所、郵便取扱所が「郵便局」と改称されるが、明治7年(1874)公布の「日米郵便交換条約」においては既にこの名称が使用されており、「郵便局」への名称変更も海外宣伝のひとつであったのかもしれない。
いのうえ たくろう(日本郵政株式会社郵政資料館 資料専門員)*肩書は当時
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注
15 大蔵省記録局『外編大蔵省沿革史』駅逓寮1~2、2~5頁
16 同上13~29頁
17 「明治二年七月廿七日民部省規則ヲ置キ、府藩県奉職規則中ニ駅逓事務ノ条ヲ載ス」内務省駅逓局編『駅逓史料』
18 「陸運会社緒原」駅逓寮『紀事編纂原稿』第3編(1874年)
19 橋本輝夫監修前島密「駅逓権正となる」『行き路のしるし』(日本郵趣出版、1986年)19~20頁
20 前島密「逸事録四七伝馬所助郷に就て」『鴻爪痕』(財団法人前島会、1955年)311頁
21 農商務省駅逓局『駅逓明鑑』巻4第11篇(1882年)119~122頁
22 『明治三年正院本省郵便決議簿』駅逓寮郵便課(郵政資料館所蔵)
23 橋本輝夫監修前島密「駅制改革と陸運会社の創設」『行き路のしるし』(日本郵趣出版、1986年)37頁
24「陸走会社開設」『東京市史稿』市街篇市街51-0643(臨川書店、2001年)、金子一郎「陸走会社について」『日本歴史』5月号(吉川弘文館、1981年)66~76頁
25 明治4年8月11日に帰朝した前島と定飛脚問屋総代佐々木荘助等との最初の接触は同年9月(『社史・日本通運株式会社』(1962年)、「乍恐以書附奉願上候」『駅逓明鑑』10巻9篇運輸会社ノ部)とされる。確かに『行き路のしるし』において、前島は「余カ本官ニ拝セルヤ即チ其総代等ノ邸ニ強願シタル」(『行き路のしるし』(日本郵趣出版、1986年)35頁)と述べていることから事実であろう。藪内はこれをもって明治5年4月の召喚を否定している(『近代日本郵便史』(明石書店、2010年)77頁)。しかし、前島が「省議を決したる上東京定飛脚問屋総代佐々木荘助氏を召喚せり」(「帝国郵便創業事務余談」『行き路のしるし』(同上)113頁)と述べているように、最終的な召喚は省議決定前後の同5年4月頃であろう。要するに、前島は約半年かけて佐々木等を説得したのである。
26「陸運元会社奥立」駅逓寮『紀事編纂原稿』第6編(1874年)
27 郵政省編『郵政百年史』(逓信協会、1971年)93頁
28 静岡県駅逓掛『宿駅御用留』(1872年)郵政資料館所蔵
29 農商務省駅逓局『大日本帝国駅逓志稿・同考証』(1882年)551頁
30 農商務省駅逓局『駅逓明鑑』10巻第9篇(1882年)47~48頁
31 「大蔵省達第四十三号」、「駅逓頭約定書」内閣記録局編『法規分類大全』運輸5郵便郵便物414~416頁
32 大蔵省記録局『外編大蔵省沿革志』駅逓寮1~2、53頁
33 郵便法では新たに価格表記制度が設けられ通貨、金銀、宝石、珠玉等高価なものが対象となった。
34 明治六年六月二十七日太政官布告第二百三十号「私ニ物貨運送ノ営業ヲ禁止ス」『法令全書』(1873年)
35 大蔵省記録局『外編大蔵省沿革志』駅逓寮1~2、58~59頁
36 増田廣實「第2章移行期の交通・運輸事情」山本弘文編『交通・運輸の発達と技術革新』(国際連合大学、1986年)16頁
37 内務省布達甲7号(8年4月20日)「陸運会社ヲ解散セシメ人馬継立営業ニ関スル事件ヲ各府県ニ委任ス」内閣記録局編『法規分類大全』運輸2駅逓陸運営業356頁
38 藪内吉彦・田原啓祐『近代日本郵便史―創設から確立へ―』(2010年、明石書店)73~74頁
39 中村日出男『郵便創業時の記録全国実施時の郵便御用取扱所』(郵政省郵政研究所附属資料館研究調査報告6、1994年)13頁
40 「陸運法変更奏議」内務省駅逓寮『紀事編纂原稿』(1874年)
41 たとえば佐々木が「元来旧伝馬所ニ従事スル輩ハ多ク其財産ニ乏キヲ以テ」と述べている(7頁)のように、会社経営が行えるほどの資本が充実していないものもあったのではないか。
42 「帝国郵便創業事務余談」『行き路のしるし』(日本郵趣出版、1986年)114頁
43 「布告駅法改正規則を定ム」(明治3年3月9日)内閣記録局編『法規分類大全』運輸1駅逓11頁、「改定駅逓法」大蔵省記録局『外編大蔵省沿革志』駅逓寮1~2、53頁
44 『大阪商業史資料』15運輸及び船舶其一飛脚の話(大阪商工会議所、1964年)15~19頁
45 「村松家系」村松七九『江戸三度』(村松七九、1917年)
46 井上卓朗「郵便創業期の郵便賃銭表」『郵便史研究』第30号(郵便史研究会、2010年)
47 同上
48 省議11月3日達「郵便規則」農商務省駅逓局『駅逓明鑑』6巻第13篇(1882年)123頁、『逓信事業史』逓信省編(1940年)50~54頁
49 「旧銅貨価位設定」『東京市史稿』市街篇市街52-0672(臨川書店、2001年)
50 その後、郵便の全国実施に合わせて、新切手(桜切手)の1銭、2銭が明治5年7月、半銭、10銭、20銭、30銭が9月、4銭が6年4月に発行され、竜5銭切手が5月に廃止される。
51 大蔵省布達5年3月「郵便規則」内閣記録局編『法規分類大全』運輸4郵便郵便規則25~42
52 明治5年2月、鉄道開通に先立ち同区間の鉄道による飛脚の書状逓送を禁止する布告が出されている。明治5年2月25日寮議「東京横浜間汽車運送鉄道寮掛合」農商務省駅逓局『駅逓明鑑』巻11第14篇(1872年)7丁
53 「本年7月以降北海道後志胆振両国以北ヲ除ク外全国ノ官道支道ヲ論セス凡ソ県庁ヲ設置スルノ地方及ヒ港津市駅公私ノ事務頻繁ノ地ハ其景況ニ応シ毎日或ハ隔日或ハ一月ニ五六次ヲ期シテ郵便法ヲ開設シ沿道傍近ノ市村ニイタルマテ往復交通セシム因テ郵便規則ニ準依シ信書等ハ各地郵便役所及ヒ郵便取扱所ニ発付スヘシ」大蔵省記録局『外編大蔵省沿革志』駅逓寮1~2、17頁
54 「官吏派遣依郵便開設官吏派遣伺」農商務省駅逓局『駅逓明鑑』巻10第14篇(1872年)105丁
55 「派遣官吏物持人足伺」農商務省駅逓局『駅逓明鑑』巻10第14篇(1872年)106丁
56 「依官吏派遣沿道各県達伺」農商務省駅逓局『駅逓明鑑』巻10第14篇(1872年)105丁
57 大蔵省布達第33号(明治5年3月4日)『大蔵省沿革志』駅逓寮1~2、5頁
58 前島密「郵便創業談」『鴻爪痕』(財団法人前島会、1955年)562頁
59 田辺卓躬『下総郵便事始』(崙書房、1980年)
60 この文書は木下宿の郵便取扱人であった吉岡家所蔵のものであるが、『郵便道案内』は我孫子宿の小熊甚左衛門も受領しており、郵政資料館にも同じものが所蔵されている。「木下町吉岡家所蔵古文書」『千葉県印旛郡誌』第6節通信(千秋社、1989年)304~306頁