日本における近代郵便の成立過程―公用通信インフラによる郵便ネットワークの形成|公用通信制度と郵便集配網の全国展開
井上卓朗
郵政博物館研究紀要第2号(2011年3月)
(著者のご厚意ならびに郵政博物館の許諾を得て本サイトに転載しています。メイン写真は日本橋。サイト管理人)
Ⅱ公用通信制度と郵便集配網の全国展開
(1)地方行政区画の変遷
明治初期は江戸時代の幕藩体制から中央集権的な近代国家への移行期であり、地方行政区画は短期間に大きく変わる。
まず明治維新直後、明治政府は直轄領となった旧幕領の代官支配地を県とし、大名領は藩とし、東京・京都・大阪や函館・新潟・横浜・神戸・長崎の開港地は府とした。
明治2年(1869)の版籍奉還を経て、明治4年(1871)廃藩置県が行われ、1使(開拓使)3府、302県となったが、近世の大名領、幕府旗本領などが錯綜した領地的境界をさらに地理的行政区画とするための統廃合によって同年12月(1872年1月)には1使3府72県となり、明治9年(1876)には大規模な県の統廃合が行われた。
府藩県下の行政組織としては、明治4年(1871)戸籍作成のための戸籍区を設置、明治5年(1872年)4月、庄屋、名主、年寄など村役人の名称を廃止して、戸長、副戸長を置いた。同年10月に大区・小区制度を実施し、大区には区長、副区長を置いた。
そして、明治11年(1878)には、地方三新法と呼ばれる郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則が制定された。そのひとつの郡区町村編制法により、府県下の行政単位を郡・区・町村として、郡長・区長・戸長を置いた。郡には郡役所、区には区役所が設置され、町村には戸長役場が設けられた。戸長役場(61)は、郵便取扱人が自宅を郵便取扱所としたのと同様に、戸長の自宅をそのまま戸長役場として使うことが多かった。
各府県等の行政に係る公用通信制度についても、これらの変遷と大きく連動していると考えられる。
(2)政府と府藩県等との公用通信
明治政府からの各府県等への通信はどのように行なわれていたのであろうか。江戸時代の幕藩体制と違い中央集権国家を目指す明治政府は、直接全国を統治するため非常に多くの布告、達等により指令を出す必要があり、各府県もそれに対する回答、照会、上申等を行なう必要があった。そのため、明治2年(1869)、政府は各府藩県に対し東京の馬喰町元郡代屋敷に東京出張所を設けさせ、そこを通じて中央政府と各府県等との文書の送達を行なった。岩手県の『官省御達同願伺府県掛合』に、明治4年11月12日(1871年12月23日)、一関県から元江刺県・元胆沢県出張所詰・酒田県・置賜県外11県宛として「常盤橋御門内松平正四位私邸に各県出張所設けられ候に付一関県出張所引移の儀申入」とあるように、各府県出張所は明治4年(1871)の廃藩置県後に、丸の内常盤橋内の元福井藩主私邸に移転している。
公文書の発送に際し、明治4年以降は郵便の開設された地域の東京出張所は郵便を利用している。そのため、出張所の門番に郵便切手の販売を行なわせたが、「府県出張所門番之者エ郵便切手売下ケ方先般願之通り聞届置候処公事ヲ奉スル者ニシテ公然公務之余暇ヲ以公物ヲ売捌其手数料請取候儀者詮議之次第モ有之候ニ付自今右売下ケ方差止申候此段門番ノ者へ可被為相達候也」として、明治5年10月(1872年11月)の駅逓寮達により郵便切手の販売を中止している。
郵便線路の開通していない県では脚夫による定便逓送か飛脚を利用したが、明治5年7月(1872年8月)の郵便の全国実施後、「自今各省府県ノ公文ヲ発送スルハ総テ郵便ニ詫付セシム但シ速達ヲ要スル者ハ脚夫ヲ以テ発送セシム太政官布告二百三号」として通常の公文書類は郵便で差立てることとなった。そして明治6年(1873)の均一料金制と政府専掌後の7月から、各県庁所在地への郵便はすべて毎日の逓送となった。
そのため、中央政府との文書授受に重要な役割を担った府県出張所も、明治8年(1875)には廃止されることになる。この背景には、郵便による公文書送達が本格化し、府県出張所の必要性が減少したためと考えられる。この出張所廃止にあたって定められた埼玉県の府県往復規程(62)によると、第1条に「府県より進達する諸願伺届等はすべて郵便をもって直に院省へ送達し、院省の指令及び達等の文書も郵便に付すべき事」とあり、第4条に「府県への諸布告・布達類は各院省より郵送すべき事」となっている。
このように、中央官庁と各府県等との公用文書送達は、明治8年(1875)という比較的早い時期に郵便により行なわれるようになった。
(3)武蔵国多摩郡田無村の公用通信
明治維新後、地域における通信状況はどのように変化したのであろうか。郵便創業前後の通信の状況を、武蔵国多摩郡田無村の史料から見ることにする。
西東京市中央図書館所蔵の「年中村入用覚帳」(63)は明治2年9月(1869年10月)から同6年(1873)8月までの4年間にわたる村費の支出明細を、名主(戸長)の下田半兵衛が記録したものである。下田家は安永年間(1772~81)以降、田無村の名主を務めた旧家で、代々半兵衛を名乗り、水車稼ぎと金融業により持高は村高の約一割を占めるに至った。
さて、この「年中村入用覚帳」に記載された事項の中で最も多いのは「浪人え遣わす」というもので、浪人が名主宅を訪ねては金を無心している様子がわかる。次に多いのが飛脚費等の通信費である。表2は近辻が翻刻した田無村「年中村入用覚帳」から通信に関係すると思われる事項を取りまとめたものである。

通信に関する記事は、明治2年9月(1869年10月)から12月(1870年1月)までの4ヶ月間で19件、3年中が64件、明治4年(1871)が14件、5年(1872)が25件、6年(1873)1月から8月までの8ヶ月間が8件の合計130件、その大半は田無村が所属する県庁等から届けられたものである。通信量を1ヶ月平均で見ると、明治2年(1869年)・3年(1870)の通信量が特に多く、その要因は社倉米取立てによる御門訴事件(64)関連した品川県よりの通知に関するものと思われる。
県庁への呼出し状もあり、届いた数日後には県庁へ出向いた費用が記入されている。その他は内藤新宿、馬喰町など宿駅関係からのもの、近隣村からのものや、飛脚賃と書かれているのみで差出人不明なものがある。
幕末期、田無村は韮山代官江川太郎左衛門支配の幕領であり、青梅街道の宿場町として、また製粉、養蚕などの産業で栄えていた。明治維新後は韮山代官支配地としてそのまま韮山県に属したが、明治2年4月23日(1869年6月3日)より品川県、4年11月29日(1872年1月9日)より入間県、5年1月29日(1872年3月8日)より神奈川県に属した。東京府に移管されるのは、明治26年(1893)4月1日である。
品川県県庁は日本橋浜町にあり、県庁との通信は内藤新宿を経て青梅街道を通って行なわれた。「品川県より飛脚賃」の下に大長、大治、秩父屋、津久井屋などの名が見受けられるが、近辻によると、これは田無村の江戸郷宿で、品川県はこの郷宿を利用して田無村との通信を行なったものと思われる。韮山県庁は伊豆韮山にあったが、東京芝新銭座に出張所が置かれ、同様に郷宿を通じ行なわれていたと考えられる。
『田無市史』(65)によると、郷宿を利用した文書送達は韮山代官所時代から行なわれていたもので、通常はこのような行政文書の通信費は村が負担するのが一般的であるが、江川太郎左衛門(英龍)は、郷宿を利用して廻状を出す際に、郷宿の幸便などを利用することでその経費を村が支払わなくてよいよう指示していたため、村民からは名代官として高く評価されていたという。換言すれば、公用文書の送達経費の村負担は決して軽くなかったということであり、また、村から上申する場合は役所まで出向かねばならず、その出張費用もかなりの負担であったと思われる。
県から田無村への飛脚賃は金1分ト500文前後が多いが、同一県庁からでも金額の差がある。当然、仕立便の場合、天候、夜間等の諸条件で飛脚の賃銭は変動したと考えられる。この表では、夜中だと倍賃銭、大風等の場合はさらに増賃銭となっている。6か年(49か月間)の合計130通の飛脚賃総額は約25両にのぼり、1通あたり0.2両となる。新貨条例により換算すると1通あたり20銭となり、明治6年(1873)の均一料金(国内2銭、市内1銭、不便地3銭)よりかなり割高である。
田無村に郵便取扱所が開設されるのは、全国実施時の明治5年7月(1872年8月)で、初代郵便御用取扱人は半兵衛の養子半十郎である。郵便取扱所は半兵衛の屋敷に設置された。開設に先立つ明治5年4月6日(1872年5月12日)「金弐両弐分/駅逓其外ノ義ニ付神奈川県え出張入用」、同年5月4日(1872年6月9日)に「金壱両三分弐朱 半十郎・杢左衛門等/是ハ郵便御開キニ付府中宿え出張入用なり」の記事がある。前者は「改正郵便規則」の受取り、後者は官員巡回のためである。
田無村に郵便取扱所が開設された以後も、信書逓送が官営独占となる明治6年(1873)5月1日までに10件の飛脚賃の記入がある。しかし、それ以降は「飛脚賃」の記入がなくなり、「県庁から脚夫賃」となっており、公用便専用の脚夫を用いた可能性がある。
(4)公用通信のための低料金郵便制度
駅逓寮は均一料金制に伴う政府専掌後に、公用通信の郵便利用を勧奨するために低額郵便制度を設けている。近世からの慣習として、人民が願伺書等を差出すときや指令書等を受領するときは役所に出頭しなければならなかった。明治6年(1873)5月12日太政官布告第159号「従前人民諸願伺等聊いささかノ事件ニテモ其本人へ戸長差添管轄庁へ罷出候ノ処自今一ト通ノ事件ハ可成大封書ヲ以郵便ニ託シ管轄庁ヘ差出シ指令ノ儀モ同様郵便ヲ以本区会所ヘ相達候様可致尤各地地方官ニ於テ実際見計ヒ本人直ニ持参為致候儀等便宜斟酌ハ不苦候事」(66)により、一般人民が願伺書などを郵便で差出すことが自由になった。
そのため、駅逓寮は、同年大蔵省達第97号により官民往復郵便は信書定税の半減とする「指令書伺等郵便逓送規則」(67)を定め、7月1日から実施した。この制度は、翌7年(1874)以降の郵便規則中に「地方管内官民往復郵便」(68)として取り入れられ、布告などの刊行物、書籍、公用簿冊など、それ以降、適用範囲は徐々に拡大されていく。明治10年(1877)からは各地方官庁に加えて、これに属する諸官衛が追加され、明治12年(1879)からは郵便葉書にも適用されて、市内用5厘葉書が召喚用などに使われた。
明治13年(1880)には、名称が「地方郵便」と変更され、地方裁判所及びこれに属する諸官衛が追加された。この地方郵便制度は、次節で紹介する「特別地方郵便制度(地方特別郵便制度)」と併せて、日本郵便が点と線から面のネットワークに転換する起爆剤として機能することになる。
この「地方郵便制度」は、明治16年(1883)の「郵便条例」制定時に市内半減制、不便地増税制などとともに廃止された。これは官民往復の公文書送達を郵便によって行うことが一般化し、とくに利用を勧奨する必要もなくなったためである。

(5)地方管内における公用通信網の整備
⑴ 近世の地方管内公用通信
江戸時代においては、領地支配の関係上、大名領主等や代官と村落、各種連合村間など地域での各種行政通信が頻繁に行なわれていた。地方管内における公用通信は、幕府の継飛脚、大名飛脚、定飛脚などの遠距離・拠点間通信とは違って、管内の多数の村民と直接往復するものであり、近代郵便制度が成立していく過程で、最重点で取り組むべき対象であった。
これらの通信は「触状」や「廻状」によって行なわれた。廻状は廻文、触状とも呼ばれ行政的に必要な用務を伝えるもので、名前のとおり順番に回し読みされた後、差出人へ返却された。最後に受け取るものを留といい、村の場合は留村といった。この内容を筆記したものを御用留という。このような廻状や村相互間の通信を送達する方法を村送、村継と言って、主要街道の宿送り(宿継)と区別した。この業務を行ったのが定使(定遣、小遣、小使、歩を含む)である。また、御状持という担当を特に置いたところもあった。
なお、廻状は民営の飛脚によって触次の村(親村)に届けられる場合が多かった。
これらの業務は名主(庄屋・肝煎)、組頭(年寄)、百姓代という村政を担う村方三役(地方三役)に付属するもので、その経費は飛脚費用を含め村入用から支払われた。
明治維新後も、各府県は新政府が次々に公布する布告類を管内に点在する戸長役場へ届け、人民すべてに周知する必要があった。明治6年(1873)2月24日太政官布告第68号(69)により布告発令毎に便宜の地に30日間掲示するよう定められ、同年6月14日には太政官布告第213号(70)で東京より各府県への布令の到達日数を定めた。
⑵ 山形県の管内限り公状方法
山形県では「郵便本法に基き各区戸長を伝達所とする管内限り公状方法を設けたい」として、県の郵便掛から駅逓寮に対し、明治5年7月19日(1872年8月22日)上申(71)を行なっている。
此度東京以東北国々一般郵便御取開ニ相成、偏陬(へんすう)僻地迄モ郵伝行届侯様可致御主意ニ而、既ニ福島ヨリ米沢通り青森本道並左沢酒田道ハ御取開ニ相成、毎月十ニ度或ハ三度宛相通シ、猶外ヶ所々々迄モ迫々可相開ハ勿論ニ候得共、管内商旅不通之村々ニ而日々之郵便御取開可相成程之見込モ無之、且又御規則之通り取行侯テハ莫大之御損失ノミニ而左程ノ洪益モ不相見侯処、従来県庁ヨり布告状廻達並戸長副始呼出シ等日々之公状逓送方細則無之侯ニ付此度郵便本法ニ基キ権冾之処置ヲ以管内限り日々伝達方法相設ヶ度、別冊之通り取調夫々可申達存侯処、別段伝達切手ヲモ相製シ且切手売代脚夫賃等モ不同有之事ニ付、若シ郵便公制ニ於テ御障碍有之間敷哉為念及御聞合侯、右ハ指迫候事情モ有之事ニ付、早急御報被下度此段申進侯也
壬申七月十九日 山形県郵便掛
駅逓寮御中
管内限リ公状方法
一、管内限リ公状伝達便利之為ノ各国ニ御用状伝達所ヲ設ル事
但毎区戸長副戸長ノ内ニ而兼勤スベキ事
一、山形戸長会所ヲ元伝達所卜シ郡中ニ配達スヘキ事
一、各区伝達所ニ於テ伝達切手ヲ売捌ク事
但切手ハ元払先払私状ト三色ニ分チ製スル事
一、伝達夫賃ハ昼夜兼行一里ニ付三百文卜定ノ半道内ハニ百文之事
但一時三里行遅延スヘカラサル事
一、公私共ニ書状ヲ出サシ卜スル者ハ伝達切手ヲ買置キ書状一通ニ付五里内ハ百文十里内ハ弐百文拾五里内ハ三百文廿里内ハ四百文卜定メ切手ヲ書面ニ張付ヶ之ヲ伝達所ニ託スヘキ事
但先払切手ハ県ノ呼出シニ限リ他ハ用ユヘカラサル事
一、各区伝達所ニテハ里数相当ノ切手張付タル公私之状チ受取置キ切手ハ墨ニテ消シ公状ハ直様継立私状ハ定日ヲ以テ互ニ伝送スへキ事
但公状通行ノ時ハ定日之外タリ卜モ私状ヲ付ヶ迭ルヘキ事
一、私状ノミニ而管内ヲ一周スル便リハ時間不定勿論昼夜兼行ニ不及事
一、元伝達所ニテハ日々第三字限リ其日ノ公状ヲ取纏メ帳冊ニ記載シ近傍各区之伝達所ニ配達シ区順ヲ以テ聊無遅延昼夜兼行逓送スヘキ事
但其日公状一封モ無之私状ノミニテハ差立相扣可申事
一、各区ノ伝達所ニテハ刻付ヲ以テ順ニ継送リ各其区々村々エ可達書状ヲ改メ請取印イタシ之ヲ其当人ニ伝付スル事
但其村之戸長ヨリ送ル者ハ無賃之事
一、御用品ニヨリ先払之公状賃銭其当人ヨリ可取立分ハ一時其区之伝達所ニテ差替置キ当人ヨリ屹度可取立事
一、夫賃銭ハ切手売捌代金之外各区伝達所ニテ差替へ払置半月々勘定仕上ヶ翌月四日迄ニ元伝達所へ可差出事
一、元伝達所ニテハ総区中之勘定仕上ケト切手売代金一ニ差引不足之分一ヶ年ヲ通算シ之ヲ民費ニ課スヘキ事
伝達切手之図(略)
五里以内ハ一枚ヲ張リ十四里以内ハ二枚十五里以内ハ三枚ヲ張リ差出可申事
山形県管内限書状伝達券
五里壱銭 御用元払ノ分ハ紅紙先キ払ハ白紙 私状ハ黄紙之事
(以下略)
(本寮郵便決議簿郵便課第四号)
この上申は、「福島から米沢通、青森本道、左沢酒田道については郵便が開通しているが、管内の商旅不通の村々においてはまだ郵便が開通する予定が立っておらず、また郵便を開いても損失が大きいと思われる。従来県庁より布告状廻達、戸長副始呼出などの公状逓送方については正式な細則が定められていないので、郵便本法に基いて管内限りの公状伝達方法を設けたい」というもので、これに対し、駅逓寮としては、官状の伝達所を設けることは県に任せるとしているが、その費用不足分を民費に課すのは如何なものかと否定的であり、伝達切手の発行についても紙幣と同様なものであるので大蔵省の判断が必要と、これまた否定的な見解を示している(72)。
特徴的なのは、山形県の上申文に「郵便本法ニ基キ」とあり、切手を発行し、公用だけでなく私用の通信も行なおうとしていることである。
⑶ 岡山県の御用帖定使定則
岡山県においては、明治10年(1877)「御用帖定使定則並線路表」を制定し、定使による公状送達を開始したが、明治11年(1878)4月に定使の巡回方法を改正している。この記録が、岡山県の府県資料(73)に残されている。この「管内御用状定使定則」は全18条からなるもので、各区戸長へ岡山県乙業80号をもって告達している。
この定則から、定使による公状送達の詳細がわかるので、その内容について条目ごとに概略を紹介することにしよう。
第1条、岡山県内の管内定使線路を6ブロックに分割すること。
第2条、休日・祭日の取り扱いに関すること。
第3条、定使の賃金は官費支出すること。
第4条、御用状配達の有無にかかわらず必ず区務所へ立ち寄ること。
第5条、区務所に立ち寄った際は必ず県庁その外への御用状、進達状等を持ち帰り配達すること。
第6条、送達の書帖は県庁各課、警察署、裁判所、各区務所の名前等公用であることを明文化したものであること。若し私用の書状がある場合は郵便規則に抵触するので、私用の送達は許可しないこと。
第7条、金額が5円以下の上納金は上納証等とともに送達することができる。県庁からの下付金もこれに準じて送付する。但し、盗難遺失の際は請負人が弁償することになるので、相当の抵当品を県庁に取置くこと。
第8条、定使請負人は県庁近傍に詰めておき、日々用便を行なうこと。手数料は定使賃銭の内より10分の1以内とすること。
第9条、県庁各課は御用帖差出目録を作成し宛名所付月日を明記し、書帖とともに受付科へ廻すこと。受付科においては請負人へ御用状等を渡すときに受取の証印を取ること。
第10条、請負人も用録帖へ明記し、各線路配達帖にも記載し、御用帖とともに定使に渡し、定使は各区務所其の外の配達の際配達帖へ受取の証印を取ること。但し御用の有無に かかわらず往返とも線路区務所へ立寄り、その証として配達帖へ月日時刻を記し当直の証印を受けること。
第11条、各区務所より御用状等を受け取ったときも配達帖へ記載し、県庁受付科其の外にて受取の証印を受けること。
第12条、非常大至急の御用帖は遅滞なく差立て届け先において時刻等を記した証印を受け取り、それを差し出すこと。遅滞した場合、又は受取書がない場合は別仕立ての功がないものとし、増賃銭は支給しないこと。
第13条、定使は各線路専用として他の線路と兼用してはならない。若し他の線路のものを差し立てた場合は直ちに差し戻すこと。
第14条、各警察署、区務所へ定使が到着した場合、その受け渡し時間は30分以内とすること。その時間内に差立てできない場合は翌日へ回すこと。
第15条、定式公用送達は封帖及び諸願伺届書に限ること。その他の諸布達、諸帳簿、地券鑑札等の類は一区務所量目百匁に付里程一里の賃金一厘と定め別途に支払うこととする。百匁未満の量目は刎捨て百匁以上の端量目は四捨五入とする。
第16条、量目に応じた別途支払いの賃金は、県庁差立の分は官費、各区務所差立の分は区費とし一か月分ずつ計算し請負人へ下げ渡すものとする。
第17条、量目によって差し立てる分は一区務所分ごとに配達簿へ量目を登記し、県庁は受付科において押印し定使へ渡すこと。
第18条、定使は荷造りの都合により送達書類の緩急を計って翌日に回すこと。
この定則は区務所など大区・小区制に対応する内容となっているが、明治11年(1878)7月に郡区町村編制法が施行され大幅に行政区画が変更となったため、11月には各区務所を郡区役所に変更し、線路を6コースから7コースに増やす新たな定使線路里程表を作成している。
こうした地方管内の公状送達制度は、江戸時代からの単なる連続ではなく、新たな行政区分により成立した各府県が大区小区制度に対応した形でルート設定をして設けたもので、郡区町村編制法施行後はそれに対応して修正された。

⑷ 地方管内公用通信制度
公用通信が各府県による自前の送達方法によって行われた最大の要因は、郵便制度が府県の発する公状等を定められた期限内に管内全域へ届ける能力をまだ有していなかったためであり、各府県とも郵便によって送達できる地域では郵便を利用している。また、明治6年(1873)以降は民営飛脚の業務が禁止されたため、民営飛脚を利用していて自前の送達手段を持たなかった府県も、脚夫による自前の送達手段を講じなければならなくなったと考えられる。
大きな特徴は、人民諸願伺等が役所に出頭せずに郵便で差出すことが可能となったため、地方管内の公状送達もこれに対応した官民往復という形で、戸長役場へ配達するだけでなく、戸長役場からの請願、進達書類を取り集めて県庁各課へ配達している点である。これは、江戸時代の公用通信制度と大きく相違している。
このように、地方管内の公用通信制度は、郵便制度が普及するまでの先行的な制度の意味合いが強い。上述の山形県のように上申文にはっきりと「郵便本法ニ基キ」として切手を発行し、公用だけでなく私用の通信も行なおうとしている県があることからもわかる。高知県においても、明治5年6月(1872年7月)、新たな県内の通信制度として「駅逓法」を制定して、公私用の「村送り切手」を実際に発行している(74)。また、埼玉県においても、「郵便記」と記した切手と同形の小紙片を公用通信制度に採用している(75)。
しかし、県の公用通信制度による私信逓送の試みは、明治6年(1873)の均一料金制の導入による信書逓送の政府専掌によって中止されることになる。さらに、地方管内の公状送達においても、明治13年(1880)に郵便犯罪罰則規定(76)が改正され、諸官状・公状・公訴の書状についての政府専掌からの除外項目が削除され、県庁と郡役所との往復の公用状も郵便を利用することになったため、この地方管内の公状送達制度をいかに郵便に置き替えるかが最大の課題となった。
(6)公用通信インフラを包摂した郵便ネットワークの完成
⑴ 特別地方郵便制度による公用通信網の取り込み
上述の通り、各府県は明治11年(1878)7月に制定された地方三新法(郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則)により、地方自治体としての体裁が整えられ、管内における通信の重要性がさらに高まりつつあった。
この「特別地方郵便制度」は、このような時期を迎えたこれらの府県と駅逓局が個別に公文書送達の契約(約束)を結び、郵便で取り扱う公用通信を地域の実状にあった形で実施する制度であった。府県のなかで最も早くこの制度を取り入れたのは、明治13年(1880)1月から実施した埼玉県であると考えられる(77)。
なお、この府県との契約による「特別地方郵便」は、他に「地方特別郵便」「地方郵便特別法」とも呼ばれ、単に「地方郵便」と表記されている場合も多く、郵便規則中の管内公用郵便の低額取扱制度(78)である「地方管内官民往復郵便」「地方郵便」と混同されやすいので、地域史料を調査する場合十分な注意が必要である。
明治14年(1881)、鹿児島県では、県内の郡役所・戸長役場に特別地方郵便の大意を次のように説明している(79)。
○地方郵便大意
一、県庁郡役所各警察署派出所監獄署戸長役場ノ間ニ互送スル公文書類及県庁郡役所ヨリ管内或ハ部内へ速書又ハ人民ヨリ差出シタル請願伺指令書其他人民召喚状ノ如キ公用書類ハ総テ郵便切手ヲ貼付セサル事
一、郵便局之ナキ町村へハ郵便切手売下所ヲ設置シ郵便函ヲ設ケ該町村ヨリ差出ス郵便物ハ該函へ投入セシメ各郵便局於テハ各村巡回集配人ヲ置キ毎日若クハ隔日各町村切手売下所投函ノ書状等ヲ取集メ又ハ役場及ヒ人民へ達スヘキ郵便物ヲ配達セシムル事
一、郡役所在地郵便局ニ限り各町集配人ノ外特ニ郡内巡回集配人ヲ置キ毎日各郵便局ヲ巡回セシメ郡役所ヨリ戸長役場等え達スヘキ公文書類ヲ各郵便局へ配達シ又戸長役場ヨリ郡役所等へ差出スヘキ公文類ノ各郵便局ニ集リアル分ヲ取集メシム事
一、地方郵便ニ属スル公文類悉皆貼付セサルニ付該経費卜シテ十三年度仕払タル実費郵便税額ヲ目安卜シテ各役場ノ分一括ニシ一ヶ月何百円卜定メ駅逓局へ収ムヘシ
この制度をわかりやすく言えば、各県と駅逓局が個別に契約(約束)を結んで、県内の公用文書送達を郵便局が行なうもので、前年度の差出郵便物数に相当する郵便料金を一括前納することにより切手貼付を要しない郵便制度(80)である。
そのため、「明治十四年郵便規則及び罰則」第1条第4節の「郵便税ハ必ス郵便切手ヲ以テ払フヘキコト」の後に、「但駅逓総官ト特別ノ約束アルモノハ此限ニ在ラス」という但し書きが追加された(81)。
熊本県では「特別地方郵便制度」を導入するにあたり、「一の良法あり」として、各郡区役所に「公用書類等ハ郵便規則ニ拠リ逓送配達侯儀ハ一般之公則ニ候得共遅延等モ有之実際差支侯ヨリ無余儀便宜方ヲ以逓送ノ向モ有之哉ニ相聞候処茲ニ一ノ良法アリ、即チ地方郵便特別法是ナリ、此方法ヲ布ク卜キハ官民間ノ公用ハ勿論自然人民往復ノ信書モ速達スヘキ便法ニシテ既ニ実施経験地方モ有其方法書駅逓局ヨリ差廻侯ニ付管内ニモ官民便宜ノ為メ右方法施行ノ儀其筋へ可及稟議ニ付(以下略)」と布達した(82)。
これまで熊本県では、公用書類等の送達に郵便を使うと遅延することもあるので、しかたなく県庁の公用便で行なってきたが、「この地方郵便特別法を行なえば、官民間の公用は勿論、自然人民往復の信書も速達される便法である。」と説明している。それでは、この「地方特別郵便」の具体的な内容を明治14年(1881)の愛知県の布達(83)からみてみよう。
今般駅逓総官ノ許諾ヲ得来ル三月一日ヨリ別紙特別地方郵便法施行候条此旨布達候事
明治十四年二月十九日 愛知県令国貞廉平 (別紙)
特別地方郵便法
一、県庁郡役所戸長役場の間に往復スル公文類及ヒ県庁郡役所ヨリ管内或ハ部内一般ヘ可相達諸達書類ハ総テ郵便切手貼付セサル事
一、県庁郡役所戸長役場ヨリ直チニ人民ヘ達スル提喚状及ヒ諸願伺ノ指令書ノ如キ公文及ヒ人民ヨり県庁等ヘ差出ス諸願伺届書類ハ総テ郵便規則ニ拠り相当ノ税ヲ拂フベキ事
一、県庁ヨリ郡役所或ハ戸長役場等ヘ差立ツヘキ公文類ハ一ツニ相括リ郵便局へ差出スベキ事但郡役所ヨリ県庁若クハ戸長役場等へ差立ツヘキ公文類モ本文ニ準ス
一、左ノ各郡役所々在地郵便局ニ限リ特ニ県庁ト郡役所ノ間ニ往復スル公文逓送ノ一便開設ノ事
尾張國 愛知郡役所 東春日井郡役所 西春井郡役所 丹羽・葉栗郡役所 中嶋郡役所 海東・海西郡役所 知多郡役所
三河國 碧海郡役所 西加茂郡役所
一、郵便局所在地戸長役場ヨリ郡役所若クハ県庁等へ差出スベキ公文類ハ一ツニ相括り該地郵便局へ差出スベキ事
一、郵便局設置無之各村戸長役場ヨリ郡役所若シクハ県庁等へ差出スベキ公文類ハーツニ相括リ郡役所々在地郵便局巡回集配人ヘ交付スベキ事
一、郡役所々在地局ニ限リ郡内巡回集配人ヲ置キ郡役所ト戸長役場ノ間ニ往復スル公文類ヲ集配セシムル事
一、県庁若ク郡役所ヨリ差出シタル公文類ハ通常郵便物ト区別相立別嚢ニ致シ通常郵便物ト併セテ逓送可致事
一、郵便局設置無之各村戸長役場ニ設ケアル郵便掛函開閉ノ儀ハ切手売下方担当ノ筆生ニ於テ取計郡役所等ヘ差出ツベキ公文類ト尋常ノ郵便物ト之ヲ区別シ公文類ハ戸長役場ヨリ差立ツベキ分ト取束予巡回集配人へ交付スベキ事
一、郵便局設置無之各村戸長役場ニ於テ郵便切手売下可申事
一、郵便局所在地戸長役場ヨリ郡役所等ヘ差立ツベキ公文類ヲ該地郵便局ヘ差出シタルトキハ前項同様巡回集配人ヘ交付スヘキ事
一、現設郵便局ハ置局無之各村切手売下所ノ所轄局トシ該売下所ハ其分支ト可心得事
一、郵便局設置無之各村居住ノ人民ヨリ書留郵便物ヲ差出シタルトキハ戸長役場ニ於テ
一時仮証ヲ交付シ置キ追テ所轄局ノ請取証書ト引替可申事
一、切手売下并郵便物配達数トモ所轄局ニ於テ御勘定表ヘ組入可申事
一、各郵便局ヘ市外集配人ヲ置キ市外配達ノ郵便物ハ渾テ一村纏メニシ之ヲ各村戸長役場ヘ配達シ而シテ該役場掛函ヘ投入シタル郵便物ヲ取纏メシムヘキ事
一、郵便局設置無之各村戸長役場即チ切手売下所ニ於テハ郵便物配達方相心得郵便局ヨリ交付シタル郵便物ハ即日配達スベ事 但不得止事故有之時ハ翌日限り必ス配達スベキ事
一、 前項売下ニ於テ配達スベキ手数料トシテ信書壱通ニ付金七厘ツヽ駅逓局ヨリ下付可相成事
但公文類ハ此限リニアラス
一、前項配達料ハ所轄局ヨリ交付シ其局御勘定表へ組入可申事
一、郵便切手ハ所轄局ヘ下ヶ渡可相成ニ付該局ヨリ夫々売下所ヘ交付シ手数料ノ割合ハ所轄局取扱役ト売下人トノ間ニ於テ適宜示談可致事」
この駅逓局と愛知県との契約において特徴的な点をあげれば次のようになる。
①郡役所々在地の郵便局は、県庁と郡役所の間に往復する専用便を設置する。また郡内巡回集配人を置き、郡役所と戸長役場の間に往復する公文類を集配する。
②各郵便局には市外集配人を置き、市外配達の郵便物はすべて一村分をまとめて各村戸長役場へ配達し(84)、戸長役場にある掛函ヘ投入された郵便物を取りまとめる。
③郵便局が設置されていない各村戸長役場においては以下の業務を行なう。
○設置された郵便掛函の取集めは戸長役場の切手売下方担当の筆生が行い、郡役所等へ差出す公文類と通常郵便物とを区分し、公文類は戸長役場から差立てる分とに事前に把束し巡回集配人へ交付する。
○戸長役場を切手売下所として郵便切手の売捌きを行なう。
○村人が書留郵便物を差出したときは、戸長役場において一時仮証を交付し引き受ける。追って所轄局の請取証書と仮証とを引き替える。
○郵便局から戸長役場にまとめて配達された郵便物は、戸長役場が村内に即日配達(85)する。
特に③の郵便局の設置されていない戸長役場の業務は、郵便局の業務を代行する内容となっており、これまで郵便史研究の中では看過されていた事項である。
このように「特別地方郵便法」は、郵便局が設置されていない戸長役場に村内の配達や郵便箱の開函などの郵便局業務を代行させるなど、県庁による自前の公用状管内逓送制度と郵便制度を融合させた制度であり、郵便網が未だ整備されてない末端部分を行政が代行するという便宜的な制度であった。しかしながら、この制度がもたらした最も大きな成果は、郵便局、集配ルート、集配回数、郵便函場の増設にあった。「中外郵便週報」は、特別地方郵便法を実施した県の状況を次のように伝えている。
○「中外郵便週報」第壱号(明治14年1月3日)
宮城県にては是まで県庁と郡区役所との間に往復する公用書状を総て別便にて差立られたりしを先月一月より全たく郵便一途に帰せしめ書留にて各地逓送の方法を設け之がために郵便局六十三ヶ所を設け且つ戸長役場の在る土地には函場を置き郵便切手売下所も二百四十四ヶ所へ命ぜられ県庁への線路は都て毎日往復と定められたり官民公私の便利いかばかりぞや
○「中外郵便週報」第五十三号(明治15年1月2日)
岡山群馬千葉乃三県下は本月本日より管内地方郵便方法を改正し各局市内外をも定期集配となし且つ各所へ郵便函と切手売下所を設置し其数群馬は三百五十一ヶ所千葉は六百七ヶ所岡山は千六十二ヶ所なりと云えは公私の便利いかばかりならん「特別地方郵便法」を駅逓局と締結した府県は、「中外郵便週報」の「官民公私の便利いかばかりかや」という記事のとおり、一挙に郵便集配網が管内に広がり、公用伝達のみならず一般の郵便利用の増進にも大きく役立ったと考えられる。
⑵ 公用通信を可能とする郵便集配網の完成
この「特別地方郵便法」は、明治15年(1882)12月駅逓局達梓規15第123号により「何府県管内地方郵便改正来ル明治十六年一月二日ヨリ実施候条別紙ノ方法ニ照ラシ取扱フヘク尤郵便逓送集配方法ハ総テ従前ノ通リ心得ヘク此旨相達候事」として「地方郵便」という名称で正式に公表された。これは、全国の府県において「特別地方郵便法」実施もしくは実施の目処が立ったということであろう。
この「地方郵便」という名称は、公表後すぐに「約束郵便」という名称に変更され、明治16年(1883)1月2日から実施されたが、県との特別契約による制度という点では「特別地方郵便法」と変わりなかった。事情により「特別地方郵便法」の施行が遅れた地域では、明治16年(1883)以降この「約束郵便」によって駅逓局との契約が行われた。そして「特別地方郵便法」と同様、契約履行条件である郵便局や函場(86)など集配施設の整備が行われた。
滋賀県における「約束郵便」の実施状況について、田原啓祐が「明治前期における郵便事業の展開と公用郵便―滋賀県の事例を中心として―」(87)において詳細な調査を行っているが、この契約後郵便局や集配施設の整備が集中的に行われたことを報告している(88)。また、田原は、明治16年(1883)の「約束郵便」とそれ以前の「特別地方郵便」との相違点として、①「郵便区の設定(Ⅲの2において詳述)による集配受持区域の明確化」、②「集配人による郵便物の1日1回以上の定期配達(幸便など委託配達の禁止)」を挙げ、郵便条例、駅逓区編成法等により体系化された制度に基づく業務の拡充、整備が、「約束郵便」によってさらに促進されたことを指摘している(89)。
この制度の未実施県は、近辻の調査(90)によると、明治16年度末の段階で富山県、静岡県、北海道の3か所のみであり、富山、静岡両県は翌17年度、北海道は明治20年(1887)から実施されている。これにより日本全国の地方管内の公用通信需要をカバーする集配網が完成したと言えるが、当然、この集配網は民間需要にも応えるものでもある。次の達(91)は、明治17年(1884)6月末に新潟県が約束郵便(特別地方郵便)を解約したときのものである。(下線は引用者)。
○高17第933号 水沢郵便局
本年七月一日ヨリ当県約束郵便解約ニ付テハ郵便配達ノ儀ハ幸便ヲ以配達候向モ有之哉ニ相聞へ候儀右約束郵便ハ相解候条モ集配方法ハ定期ニヨリ取扱決テ幸便配達ニハ無之候間不都合可取扱此旨為心得相達候事
高田駅逓出張局長心得
明治十七年八月廿ニ日 駅逓六等属吉川一雅
これは、水沢郵便局が「約束郵便の契約と同時に始まった毎日の集配を、県の約束郵便解約と同時に元の幸便配達に戻してしまった」ために、駅逓出張局が「約束郵便契約の解約に関わらず、現行の定期集配を継続するように」指示したものである。
このように「特別地方郵便法」によって、公用通信に対応するために拡大し整備された郵便集配網は、明治16年(1883)以降、官民を問わない普遍的な集配網となったと言える。
いのうえ たくろう(日本郵政株式会社郵政資料館 資料専門員)*肩書は当時
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注
61戸長役場には戸長の他筆生、小走などの職員がいて県庁、郡役所からの布告・布達の徹底、徴税、戸籍、教育、衛生等の行政事務を行った。
62 「東京出張所廃止一件書類」『府県往復規程』(1875年)埼玉県行政文書明197
63 近辻喜一「年中村入用覚帳」『田無地方史研究会紀要』第14号(田無地方史研究会、1994年)
64 『田無市史』3通史編(田無市史企画部市史編さん室、1995年)644~653頁
65 『田無市史』3通史編(田無市史企画部市史編さん室、1995年)558~561頁
66 『逓信事業史』(逓信省、1940年)273頁、外史局編纂『布告全書』5(1873年)12頁
67 同上、大蔵省記録局『外編 大蔵省沿革志』駅逓寮1~2、58頁
68 「明治七年郵便規則及罰則」内閣記録局編『法規分類大全』運輸5郵便 郵便規則97~98頁
69 外史局編纂『布告全書』(1873年)29頁
70 同上
71 88~91頁 農商務省駅逓局『駅逓明鑑』巻8第4篇(1882年)4~6頁
72 農商務省駅逓局『駅逓明鑑』巻8第11篇(1882年)3~4頁
73 「岡山県乙業80号」『府県史料』岡山県史料21駅逓(内閣文庫)
74 香宗我部秀雄『土佐の村送り切手』(鳴美、2009年)
75 阿部昭夫「浦和県の「郵便記」郵便」『記番印の研究―近代郵便の形成過程』(名著出版、1994年) 32~37頁
76 「明治13年郵便規則及罰則」内閣記録局編『法規分類大全』運輸5郵便 郵便規則531~534頁
77 「埼玉県乙103号」『府県史料』埼玉県史料15駅逓(内閣文庫)
78 本文中、5の⑷「地方管内効用通信制度」参照
79 「鹿児島県乙第186号」高橋善七『近代交通の成立過程』上巻(吉川弘文館、1970年)(A829)517 ~518頁
80 制度的には現在の料金後納郵便の前身とも言える。
81 「大蔵省布告第55号」内閣記録局編『法規分類大全』運輸5郵便 郵便規則、537頁
82 「熊本県第8707号」高橋善七『近代交通の成立過程』上巻(吉川弘文館、1970年)(A651)518~ 519頁
83 「愛知県甲第39号」『特別地方郵便法』(郵政資料館所蔵)
84 千葉県においては、明治7年(1874)から「管内官状郵便取扱規則」を制定し、官状の別仕立郵便 による送達を行なっていたが、明治14年(1881)12月「管内地方郵便法(特別地方郵便法)」を採 用し、愛知県と同じような手法で公用状送達を行なった。その際、やはり配達については戸長役場 までであった。しかし、翌年の15年(1882)2月には戸長役場までの配達を改正し、郵便集配人が 直接各戸へ配達することにしている。
85 戸長役場の業務として県、郡役所からの布告類の周知があり、その一環として郵便業務を行なった とも考えられる。
86 郵便ポストと切手売捌所が一緒に設置されている場所
87 脚注7参照
88 田原によると滋賀県の約束郵便契約期間は2年2ヶ月であり、その廃止理由は、この制度を悪用した私的利用の増加であったという。この例は他県においても同様であり、「中外郵便週報」にはそれを咎める意見書が載せられている。「明治前期における郵便事業の展開と公用郵便―滋賀県の事 例を中心として―」『経済学雑誌』第100巻第2号(1999年)
89 『近代日本郵便史―創設から確立へ―』(明石書店、2010年)137~138頁
90 近辻喜一「データシート-地方約束郵便実施状況」『郵便史研究』第29号(2010年)50~51頁
91 『明治17年高田駅逓出張局達第17号』水沢郵便局(郵政資料館所蔵)