日本における近代郵便の成立過程―公用通信インフラによる郵便ネットワークの形成|
井上卓朗
郵政博物館研究紀要第2号(2011年3月)
(著者のご厚意ならびに郵政博物館の許諾を得て本サイトに転載しています。メインは写真は中京郵便局。サイト管理人)
Ⅲ 近代郵便制度の完成
(1)郵便条例の制定による均一料金制の完成
日本の郵便制度は明治13年(1880)から18年(1885)にかけて大きな転換点を迎える。表3は郵便局に関連する施設と郵便物数の変遷を示しているが、明治16年(1883)を境にそれらが大きく変化していることがわかる。日本全国を網羅する郵便ネットワークが完成した明治16年(1883)には、通常郵便物の引き受け数が1億通を突破し、郵便局数も5,651局とピークに達している。

この明治16年(1883)という画期にあるのが「郵便条例の制定」である。上述のとおり、「特別地方郵便制度」の契約によって、駅逓局は各府県の公用通信網を郵便に取り込むことに成功した。これにより郵便の政府専掌を完全なものとし、全国を網羅する郵便逓送ルートと郵便集配網を完成させた駅逓局(92)は、さらに「均一料金制」の完全実施を目指して郵便条例の制定に力を注いだ。
「郵便条例」はいわば前島郵便の集大成である。前島ら駅逓官僚が郵便条例の検討に入ったのは、外国郵便の取り扱いを開始した明治8年(1875)頃からのようである。
前島は郵便条例施行までの経緯を『行き路のしるし』(93)に「郵便規則罰則ハ当時ノ景況ニ従テ草按シタルモノナレハ固ヨリ完備ヲ欠キタリシ故ニ年々補成シテ今日現行ノモノトハナレリ、偖テ現行ノ規則ニ於テモ甚タ完全ヲ欠キタルナリ、何ソナレハ明治八年ヨリ着手シテ広ク欧米ノ条例規則ヲモ参酌シテ一大条例ヲ草定シ其上呈ノ時機ヲ待チタルヲ以テ年々ノ補成ハ唯苟且ノ修正ニ止ミタリシニ由リテナリ、彼ノ一太条例卜云ヘルモノハ明年ハ已ニ上呈ノ時ナルヘシト余力退職ノ頃ハ粗其草ヲ定メタリシ」と述べている。
この前島の言にもあるように、この郵便条例は明治6年(1873)の均一料金制実施時に果たせなかった「本来の均一料金制」実施を目的としたものであり、また、今までの各種規則類を整理し包括した無期限の郵便法を目指したものであった。しかし、駅逓局の事業経営的見地からみて、これらを実施するには料金収入の減少と経費の増大が予想され、そのため通常郵便物の料金を2銭5厘、郵便はがきを1銭5厘とする増税(料金値上げ)案が盛り込まれていた。
明治15年(1882)4月の農商務省伺には、郵便条例制定の経緯と主な改正内容が記され(94)、上記改正を実行するためには、「均一料金としての通常郵便物の料金を2銭5厘とし、郵便はがきを1銭5厘とする料金値上げを行わなくてはならない」として、明治13年(1880)の郵便物数に基づいた詳細な積算により説明を行なっている。
その内容をまとめると表4のとおりである。

この試算の通りの値上げが認められた場合は「金二十五万六千九百二十六円二十八銭三厘」の収入増となり、様々な郵便制度の整備・改善を行なうことができるが、上記4項目による完全な均一料金制の施行のみ認められ、増税が認められなかった場合には「弐万六千七百拾六円許ノ不足」になり、今後の郵便制度運営に支障を来たすとしている。しかし、政府は上記4項目の施行のみを認め、この増税案を認めなかった。
この理由について『郵政百年史』は「郵便料金の値上げは、物貨騰貴の抑制を政策目標のひとつとしていた政府にとって実施しにくいことであり、また、インフレーション期に実質的に安くなっていた料金も、デフレ政策のもとでは、相対的に高くなっているはずであったし、値上げした場合の利用数の減少などを考慮すると、結局、値上げは行なわないほうがよいと判断された。」(95)としている。
政府のデフレ政策とは、明治14年(1881)の政変により大隈重信に代わって大蔵卿となった松方正義による緊縮財政のことであり、前島がこの政変に関連して大隈とともに下野したことを考えると、まさに時代の転換期に郵政事業も大きく影響を受けていたと言える。
この時期の経済は、明治10年(1877)の西南戦争の戦費調達、国立銀行条例の改正に伴う国立銀行券の急増等によって激しいインフレーションが生じ、その後松方正義により緊縮財政による総需要抑制と不換紙幣の回収等によるデフレーション(通称松方デフレ)が生じるなど経済の変動が激しく、国民生活に多大な影響を及ぼしている。
このように、経済変動の激しい時期に収入減と設備投資を伴う大きな制度改革をおこなった駅逓局は郵便制度の近代化を果たすことができたが、その代償として経営収支が赤字となる危険性を負うこととなった。そのため、自らの手により積極的な経営合理化を進める必要性が生じていた。
(4)駅逓区編制法の施行
「郵便条例」施行後、駅逓局は矢継ぎ早に運営機構の整備を進める。その最初の施策が駅逓区編制法の制定である。
駅逓区編制法は、日本全国を52の駅逓区に分けて駅逓出張局を設置し、その下に郵便区を設け、郵便区ごとに郵便局1局を配置する制度で、これにより日本全土はいずれかの郵便局の郵便集配区域に属することになった。その内容は次の通りである。
○十六年二月十五日 梓規十六第七号 駅逓局達
来ル三月一日ヨリ全国中駅逓区編制法併郵便線路本支両道ノ内大中二線ヲ定メ別紙書類ノ通更正候尤モ出張局併ニ分局トモ新規官設スヘキ分ハ事務ノ都合ニ依漸次相運フヘキ筈ニ候条右官設日限ノ儀ハ追テ相達候迄総テ従前ノ通相心得郵便線路差立時間ノ儀ハ更正ノ通施行可致此旨相達候事
但開閉局ノ儀ハ別紙図面ニ記載ノ他ハ総テ相シ候儀ト可相心得事
駅逓区編制法
第一条 地方ヲ画シテ駅逓区トシ駅逓区ヲ分ツテ郵便区トス
第二条 毎駅逓区ニ駅逓出張局毎郵便区ニ郵便局各一局ヲ設置ス
但東京駅逓区ノ事務ハ本局直轄シ駅逓出張局ヲ設ケタル地ニ在テハ該地郵便局ノ事務ハ其駅逓出張局ヲシテ之ヲ兼摂セシム
第三条 駅逓区ノ区域名称及駅逓出張局位置名称ハ別紙ノ通之ヲ定ム郵便区ノ区域は郵便局郵便物集配受持町村トス郵便局位置名称ハ総テ旧ニ依り郵便区ノ名称ハ其郵便局名ニ同シ
第四条 駅逓出張局ハ其区内ノ郵便局ヲ管轄シ郵便局ハ其区内郵便受取所及郵便切手売下所ヲ管ス
また、郵便線路本支両道の内大中二線を設定し、その線路中の差立局と差立時間を定めた。これは、郵便の結束が効率的に行えるよう郵便物の運送を全国的に管理するための試みであり、最初のものと考えられる。この時点では、まだ郵便線路の逓送基準等が明確化されていないが、明治18年(1885)の「郵便線路規程」によって詳細な基準が設定された。
(3)効率的な事業経営のための郵便業務の体系化
駅逓区編制法により設定された駅逓区には駅逓出張局が設置された。これまで各府県の郵便掛が府県内の郵便事務を掌管し、管内における郵便の開通、郵便取扱所の監督を行っていたが、これらの業務の大部分(96)を駅逓局直轄の分局を含む駅逓出張局が行うことになった。
駅逓出張局の業務の中で特に重要なものは①郵便区画調整、②郵便局、郵便受取所、郵便切手売下所、郵便函場、為替局貯金預所の廃置変更の取調、③逓送集配方法の取調、④貯金預所受書保証書等の取りまとめである。
全国35か所に設けられた駅逓出張局は、本局が管轄する東京、千葉、水戸、宇都宮,甲府、沖縄の6区を除く46の駅逓区を管轄した。そして、管轄下の郵便局に対して、上記の担当業務に関わる詳細な調査を開始し、その結果について県庁の意見を聞いたうえで郵便局の改廃など随時改正を行った。駅逓出張局は自局管内を調査し、その結果によって郵便区画、郵便函場等の設置場所、逓送集配方法等を新たなものとするなどして経営合理化を実行した。その結果は、郵便局、郵便区の減少、郵便ポスト・切手売捌所の減少という形で、明治18年(1885)に大きく表面化したが、それにより郵便物の取扱数が減少することはなかった。これは、郵便局における郵便逓送、郵便集配の方法が規則等で明確に定められ、効率的な業務運行が行える体制に移行したことによると考えられる。
下表は明治18年(1885)に制定された郵便集配、郵便逓送に関する規則類の一部であるが、明治16年(1883)の郵便条例、駅逓区編制法施行以降、それまで曖昧であった取集、逓送、配達に関連する業務の詳細部分がこのように明確に規定された。
また、郵便を取り扱う郵便取扱役、郵便局書記、郵便物集配人、郵便物逓送人の採用や服務、郵便局経費についても明確に規定された。

(4)郵便局の統廃合による事業経営の適正化
駅逓出張局によって明治17年(1884)、18年(1885)の両年に行われた郵便局の大量廃止の状況には凄まじいものがある。この両年度の駅逓局年報は次のように述べる。
○駅逓局第十四次年報
明治十七年度即チ十七年七月一日ヨリ十八年六月三十日ニ至ル当局事務ノ要領ヲ列載報告スル左ノ如シ
郵便局
当年度末ニ於ケル郵便局ノ現数ハ清国上海朝鮮国釜山浦元山津仁川港ニ在ル四局及郵便支局ヲ合セテ四千八百弐拾八トシ之ヲ前年度末ニ比スレハ五百四拾五局ヲ減シ郵便受取所ハ四百八拾三ヶ所ニシテ前年度末ニ比スシハ百九拾三ヶ所ヲ増シ郵便切手売下所ハ弐萬三千九百七拾七ヶ所ニシテ前年度末ニ比スレハ千九百九拾四ヶ所ヲ減シ郵便函場ハ弐萬三千五百六拾六ヶ所ニシテ前年度末ニ比スレハ七千三百四拾壱ヶ所ヲ減セリ斯ク郵便局及郵便切手売下所等ノ頓ニ減セシ所以ハ駅逓出張局開設以来大ニ事業ノ改良ヲ謀リ、地況ノ冷熱戸ノ疎密等ヲ審査シ冗ヲ省キ欠ヲ補ヒ置局ノ法ヲ一洗セシニ因ル
○駅逓局第十五次年報
明治十八年度即チ十八年七月一日ヨリ十九年三月三十一日至ル当局事務ノ要領ヲ列載報告スル左ノ如シ
郵便局
当年度末ニ於ケル郵便局ノ現数ハ清国上海朝鮮国釜山浦元山津仁川港ニ在ル四局及郵便支局ヲ合セテ四千百三拾六ニシテ之ヲ前年度ニ比スレハ七百局ヲ減シ郵便受取所ハ六百五拾九ヶ所ニシテ之ヲ前年度ニ比スレハ百七拾ヶ所ヲ増セリ、又郵便切手売下所ノ現数ハ弐萬四千九百六拾四ヶ所ニシテ前年度ニ比スレハ五百四拾壱ヶ所ヲ増シ郵便函場ハ弐萬四千八百弐拾三ヶ所ニシテ前年度ニ比スレハ弐百弐拾五ヶ所ヲ増セリ、右ノ如ク郵便受取所等ノ増加スルニ反シ郵便局ノ減スル所以ハ当年度中ニ於テ郵便区画ノ狭隘ナルモノヲ廃停シ更ニ隣区ニ分属セシメ其廃区ニアル郵便局ヲ閉鎖シ郵便受取所ヲ置ク等局所ノ配置ニ於テ改良ヲ加ヘタルニ因ル
郵便線路
(前略)斯ノ如ク実里数及延里数ニ於テ減縮シタル所以ハ陸路ニ在リテハ郵便区分ノ依リ郵便局ノ閉鎖ニ従ヒ線路ヲ廃停シ(以下略)
この前後の駅逓局年報による郵便局施設数は次のとおりである。

表3と表6とは統計を採った時点が違うため、郵便局、郵便ポスト、切手売捌所の数は一致していないが、増減については同様の傾向を示している。ただ、17年度の郵便ポストと切手売捌所の大幅な減少は、暦年と年度の統計の差が極端に現れている。これは明治17年度の後半に函場の合理化が集中して行われたことを示していると考えられる。
郵便局の増減については、表3では明治13年(1880)に600局以上、表6では12年度、13年度ともに450局以上増加し、表3では明治17年(1884)に300局、明治18年(1885)には550局(97)以上、表6では17年度に350局、18年度に500局以上減少している。しかし、この数は新設局と廃止局の数が相殺されているため、実際の動きは新設局と廃止局の計数を見なければならないが、同期間のその内訳については適当な統計がないため、田中寛「郵便局の改廃」(98)、田辺卓躬『明治郵便局名録』(99)から暦年別の郵便局改廃数を集計したところ、グラフ1のような結果となった。

明治13年(1880)には約720局が新設され、明治18年(1885)には約800局が廃止されている。明治13年(1880)から18年までの6年間の合計では約1,900局が新設され、約1,550局が廃止されたことになる。すなわち、廃止された郵便局の数は新設された郵便局数の81%に当たる。
この廃止された郵便局はいつごろ設置されたのであろうか。千葉県において新設の多い明治13年(1880)と廃止の多い同18年(1885)とを対比してみた。明治13年(1880)の新設郵便局は80局、同18年(1885)の廃止郵便局は66局であり、その中で同一の郵便局は40局であった。つまり、明治13年(1880)に新設された郵便局の50パーセントが明治18年(1885)に廃止されたことになり、明治18年(1885)に廃止された郵便局の61パーセントが明治13年(1880)に新設された郵便局であったということになる(100)。東北地方など他の地域においても、千葉県と同様に開局期間が6年前後の郵便局が多数存在している。このことから、明治18年(1885)までに廃止の対象となった郵便局の半数以上は、明治13年(1880)以降に設置された郵便局であったと見てよかろう。
明治17年度、明治18年度において、郵便局関連施設が大幅に削減された理由は、上述の「駅逓局第十四次年報」、「駅逓局第十五次年報」の解説によれば、明治17年度においては、郵便局所在地の地況の冷熱、居住者の疎密等を審査し、無駄を省き、欠を補い郵便局の置局の法を一洗した結果であるとし、明治18年度においては、郵便区画の狭隘なものを廃止して隣区に分属し、廃区にある郵便局を閉鎖し、その代わりとして郵便受取所を設置するなどして局所の配置を改良した結果としている(101)。
郵便局関連施設の廃止理由については、駅逓局年報の説明のとおり郵便局及び関連施設の適正配置であるが、郵便局の改廃については特に明治18年(1885)の集配区域の見直しによる郵便区の再設定によるものが大きいと考えられる。
後の明治38年(1905)に、二等、三等郵便局が集配郵便局と無集配郵便局とに再編成されるが、それ以前の郵便局はそのほとんどが集配郵便局であった。明治38年(1905)の集配郵便局数は約4,200局であり、郵便局が大幅に削減された明治18年(1885)の郵便局数4,100局とほぼ同数である。このことから、郵便局が集配を行う郵便区の広さは、明治17、18年度の合理化によってほぼ確定したと考えてよい。しかし、明治38年(1905)の通常郵便物数が約12億通と10倍に増えているので、明治18年(1885)が1億1千万通であることを考えると、依然として設備過多であったと言える。そのために、明治18年(1885)以降も郵便局数は減少し、明治22年(1889)には約3,600局まで減少している。
それでは、どのような郵便局が新設され、廃止されたのか。郵便局数の推移を等級別に比較したグラフ2を見ると、一等局から三等局までの規模の大きい局はほとんど変化がなく、四等局も明治15年(1882)以降は大きな変化はない。上記の増減の大半を占めているのが規模の小さい五等郵便局である。また、五等郵便局が大幅に減少するのに対し、郵便受取所が若干増加している。これは廃止された郵便局の一部が郵便受取所となったのであろう。しかし、その郵便受取所の数は五等郵便局の減少数ほどには増えてはいない。これは、特に指定されて貯金を取り扱った郵便受取所以外は、その機能が書留・速達郵便物の引受け以外は切手売捌所とさほど変わらず、郵便局の代替とはならなかったためであろう。

郵便ポストと切手売捌所については、その合理化が明治17年度に集中して行われ、その数が大幅に減少したことは上述した。
具体例として、明治17年(1884)8月2日、高田駅逓出張局は管内の郵便ポスト及び切手売捌所を一旦全て廃止し、再配置している(102)。また、その改正時は一定の基準がなかったため、その設置に濃淡が生じたとして、明治18年(1885)8月10日「郵便函場準則」を定め、戸数100戸以上300戸未満の町村には函場1個、300戸以上900戸未満の町村には2か所、900戸以上の地は300戸毎に1か所という基準を設けた。また、函場から2里以上はなれた町村は100戸未満であっても設置することとしている。このような見直しは高田以外の駅逓出張局においても行われたと考えられ、この結果として明治17年度に函場数が大幅に減少し、明治18年度に若干増加したものと考えられる。
そもそも、なぜこのように短期間で廃止されるような郵便局や函場が設置されたのであろうか。その原因は「特別地方郵便法」「約束郵便法」によって一挙に増加した郵便局施設は、各府県によって公用通信を完璧に行うことを前提に増設したためと考えられる。各府県の公用通信ルートをそのまま引き継いで設置された郵便局と郵便集配区は、明治16年(1883)の駅逓区編制法施行時にひとまずそのまま郵便区として認定された。その郵便区は、郡役所や戸長役場などを基準とするなど府県の行政的な側面が強く現れた結果であり、合理的に集配を行うための科学的根拠に基づいたものとはいえず、各駅逓出張局の調査によって明治17年(1884)、18年(1885)の2ヵ年に大幅に修正されたものと考えられる。
郵便ポストと切手売捌所の減少は、明治17年(1884)7月から明治18年(1885)6月に集中している。戸長役場の大半に設置された切手売捌所と郵便ポストはさすがに過大であったということであろう。また、郵便区の見直しによる郵便局の減少により同時に郵便線路も減少している。
このような構造改革は、郵便局及び郵便施設の設置数に大きな変動をもたらしたが、経営収支的にはどうであったのだろうか。
グラフ3は、郵政事業の収支・郵便逓送・集配費と郵便物数の変化をグラフ化したものであるが、明治15年度から赤字となっていた郵政事業の収支は、逓信省が郵政事業の運営を開始した明治19年度から改善され、黒字へと転換している。
支出面では、業務費として最も大きい比率を占める郵便逓送・集配費が、郵便物数の増加にもかかわらず明治16年度をピークに減少、又は横這い傾向を示していることに注目したい。

(5)近代郵便制度の成立
近代郵便制度の目的は、郵便法の第1条にもあるとおり、「郵便の役務をなるべく安い料金で、あまねく、公平に提供することによって、公共の福祉を増進すること」である。そのため近代郵便制度における郵便料金は「均一料金制」であり、それを維持するために「事業の独占」が認められている。『郵政百年史』においても、近代郵便制度の特徴を「官営による独占制と、均一料金制である」としている。
「はじめに」において、近代郵便制度を「①政府専掌による低額な全国均一料金、②全国津々浦々まで集配可能な郵便ネットワーク、③切手などによる料金前納、④利用の平等性、この4点を兼ね備えたものである」と定義したが、日本における近代郵便制度は上述の明治16年(1883)の「郵便条例」の制定によって十分な条件を備えたと言える。
しかし、均一料金制の完全実施に伴う収入減に対応するための料金値上げが認められなかったため、郵便制度は経営的に維持できない恐れがあった。
そのため、駅逓出張局を中心に、明治16年(1883)から18年(1885)までに、上述のような事業全体にわたる機構改革、経営の合理化を行ない、それらを規則類により制度化することによって郵便制度を体系化した。そのため、日本全国の郵便局における取集、逓送、配達などの郵便業務が同一の基準で一体的に運営することができるようになった。また、郵便業務従事者の採用や服務が規則により明確化され、郵便局の郵便取扱費や給与についても同様に明確化された。このような経緯から、日本の郵便制度が名実ともに近代郵便制度として運営できる体制が整えられたのは明治18年(1885)であったと言える(103)。
同年(1885)12月22日に太政官制度が廃止され内閣制度が創設されており、近代郵便制度の成立時期は、明治維新後の混沌とした時代から日本が新しい時代に移行する時期と奇しくも重なっている。内閣成立と同時に逓信省が創設され、誕生したばかりの近代郵便制度は逓信省によって運営されることになった。
むすび
明治維新後の「駅制改革」から「郵便条例制定後の経営合理化」までを「日本における近代郵便の成立過程」として考察してきたが、その概要をまとめると次のようになる。
明治政府は、封建制度を過去のものとして清算するために様々な施策や改革を矢継ぎ早に行ったため、法令伝達のための全国的な通信制度(郵便)を必要としていた。
新式郵便制度は、公用通信インフラである駅制を改革することにより、旧街道の宿駅を郵便取扱所とすることで誕生した。この制度は、明治5年(1872)郵便の全国実施、明治6年(1873)の均一料金制導入によって、全国に逓送網を広げた「点と線の郵便システム」として完成した。これは「五街道を中心とした駅制(公用通信インフラ)」を「郵便ネットワーク」に転換したものであった。
しかし、新式郵便制度は、まだ中央官庁から各府県庁への公用通信を可能とするレベルであり、それらを戸長役場レベルまで期限内に送達できる能力を有しなかった。そのため、各府県は管内に独自の公用文書送達制度を設けざるを得なかった。
駅逓寮は明治6年(1873)から一般人民の公用通信の郵便利用を勧奨するため、地方管内の官民往復郵便を低料金化するなどの勧奨施策を実施するが、各府県庁自身が公用通信に郵便を利用するためには、各府県が設けた公用文書送達制度と同等以上に管内全域に郵便集配網を広げる必要があった。
そのため、各府県と駅逓局は「特別地方郵便法」に基づき「県内の公用文書送達を郵便で行う契約」を個別に結び、この契約を結んだ府県については管内の集配設備を一挙に増加させることによって管内にあるすべての戸長役場までの配達を可能としていった。
この契約を結んだ府県は、管内の公用文書送達を郵便によって行うことが可能となっただけでなく、増設された郵便局、郵便ポスト・切手売捌所等の集配施設により管内全域に郵便集配網が広がった。その結果、公用郵便だけでなく一般国民の郵便利用が管内全域で可能となった。「特別地方郵便法」による契約は逐次行なわれ、その都度郵便集配網は全国に拡大していった。
そして、明治16年(1883)には近代郵便制度の代名詞たる「完全なる均一料金制」を実現した「郵便条例」が施行され、近代郵便制度は制度的に完成した。
しかし、そこには大きな問題があった。郵便条例実施の前年、駅逓局は郵便集配網の拡大による運営経費の増大、均一料金制の完全実施による料金収入の減少を予想して、郵便条例実施と同時に郵便料金の値上げを検討していた。だが、明治15年(1882)という時期は、西南戦争時の紙幣増発等を契機として発生したインフレーション対策として「物価抑制を政策目標」としていたため、郵便料金の値上げは認められなかった。このことは郵便の経営収支が赤字となることを意味していた。
そのため、駅逓局は、それまで各府県に任せていた郵便局の管理運営を、駅逓出張局を核とした駅逓局による直轄経営へと転換し、郵便局配置の合理化を急激に推し進めた。
結果として、明治18年(1885)には多くの郵便局や郵便ポストが削減されたが、引受郵便物数は増加し続け、明治19年(1886)の経営収支は黒字へと転換した。
以上のように、「駅制」と「地方管内公用通信網」という「公用通信インフラ」が「郵便ネットワークに転換される過程」を経て、近代郵便制度が「近代的な郵便ネットワーク」として成立したと考えられる。そして、直面した経営危機を組織の構造改革によって乗り切ることで、逓信省創設後は、同時期の西洋の郵便制度と比べても遜色のない近代郵便制度として、新たなスタートを切ることが可能となったのである。
「付記」
なお、本稿作成に際し、郵便史研究会理事の近辻喜一氏、田原啓祐氏には、多大な助言とデー タの提供等の協力を頂きました。深く感謝申し上げます。
いのうえ たくろう(日本郵政株式会社郵政資料館 資料専門員)*肩書は当時
―――
注
92 明治14年農商務省が設立され、駅逓寮は内務省から農商務省に移管となり農商務省駅逓局となった。
93 橋本輝夫監修 前島密「郵便賃銭を郵便税と改め均一料金制とし、郵便罰則を定む」『行き路のしるし』 (日本郵趣出版、1986年)47~48頁
94 「明治十五年七月四日農商務省伺」『公文録』、内閣記録局編『法規分類大全』運輸5郵便 郵便条例 1~48頁
95 郵政省編『郵政百年史』(逓信協会、1971年)186頁
96 各府県庁には、取締役選挙・変更、郵便局及び取扱役等級名称の適否調査、郵便及び為替貯金取扱 役並びに保証人の財産調査、解職取扱役手当給否の権限が残された。明治19年に駅逓出張局が廃止となり地方逓信管理局が設けられた後もそれは継続した。最終的に郵便局の経営が逓信省直轄となるのは明治22年7月地方逓信管理局が廃止され一等郵便電信局が地方管理業務を行うようになってからである。
97 表3の郵便局数には郵便受取所の数も含まれているため554局程度の減少であるが、五等郵便局単 独で見ると674局も減少している。
98 田中寛「局所改廃の記録」『郵便史学』2~8(1974~1976年)
99 田辺卓躬編『明治郵便局名録』(二重丸印の会、1983年)
100 廃止局は県内各郡から間引くように廃止されている。この状況は小原宏「明治前期における郵便局 配置に関する分析」『郵政資料館研究紀要』創刊号(2010年)92頁参照。明治17年の千葉県の郵便 局数は191局であり対前年で見ると明治18年には県内の約35パーセントの郵便局が廃止されたこと になる。
101 「駅逓局第十四次年報」(明治17年7月1日~明治18年6月30日)322~323頁、「駅逓局第十五次年報」(明治18年7月1日~明治19年3月31日)353~354頁
102 「高17第821号」明治17年8月2日『明治17年高田駅逓出張局達』(郵政資料館所蔵)
103 郵便貯金についてもこの年から基本的に全郵便局で取り扱うことになった。