資料紹介 郵政資料館所蔵資料概要
井上卓朗
郵政資料館 研究紀要 創刊号(2010年3月)
はじめに
博物館は、一般的には所蔵している資料によって、「科学系博物館」、「歴史系博物館」、「美術館」などに分類されることが多いが、郵政資料館は所蔵資料から見ると、そのいずれにも属していると言える。そのため設置者の事業経営から発生した資料を所蔵しているという観点から「企業系博物館」として分類されている。しかし、このように雑多な所蔵資料を持つ博物館は他にあまり例を見ない。それもただ広い分野の資料をもつというだけでなく、どの分野においても一級品の資料が存在しているのである。
郵政資料館が平安期の東大寺文書(1)から電離層探査ロケット模型(2)までの多種多様な資料を収蔵することに至った最も大きな原因は、郵政資料館の資料収集のターゲットである「通信」そのものの成り立ちと、その母体となった「逓信省」という組織にあると言えよう。
本稿では、まず郵政資料館の誕生から資料収集の過程を概説した上で、郵政資料館における資料分類から見た所蔵資料の概要を紹介し、資料の分野ごとに特徴ある資料をピックアップして解説することにしたい。

郵政資料館の沿革
郵政資料館は、開館以来「資料の収集、保存、展示、資料提供、調査研究などの活動を通じて郵政に関する文化の普及・啓発を図ること」を目的として活動を行ってきた。
明治35年(1902)6月20日、万国郵便連合(UPU)(3)加盟25周年記念祝典行事の一つとして、東京市京橋区木挽町の逓信省構内(4)に創設されたもので、創設時の名称は「郵便博物館」(図1)であった。明治38年(1905)、新庁舎建設のため一時芝区芝公園内の通信官吏練習所(5)に移転したが、明治43年(1910)逓信省新庁舎が完成すると名称を「逓信博物館」と改めて同庁舎内に再び移転した。大正11年(1922)、逓信省内のスペースでは手狭となったため、麹町区富士見町の病院として使われていた洋館に移転した。
この建物は、幸いにも関東大震災や戦争の被害を受けなかった(6)ため、「飯田橋の逓博」(図2)として多くの人に親しまれていたが、老朽化により昭和39年(1964)に現在の所在地である大手町へ移転、それ以降「逓信総合博物館」(7)として現在に至っている。

博物館創設の功労者
「樋畑雪湖」(8)樋畑雪湖(ひばた せっこ)は、郵趣研究の第一人者、切手原画作者、江戸時代の宿駅、街道など交通史の研究者として著名な人物であるが、郵便博物館創設の功労者であることはあまり知られていない。
樋畑雪湖は、安政5年1月20日(1858年3月5日)、真田藩士樋畑翁輔(おうすけ)(9)の長男として江戸深川の真田(信州松代)藩の下屋敷に誕生した。本名は樋畑正太郎、雪湖の号は故郷の諏訪湖の雪景にちなんでつけたものである。父翁輔は画才があり、嘉永6年(1853)のペリー来航時に高川文筌(ぶんせん)とともにその様子を描いたスケッチ(10)は、当時の状況を知るための貴重な資料となっている。
父の才能を受け継いだ樋畑雪湖は、幼い頃から絵画を学んでいる。文久2年(1862)、翁輔が病気のため江戸詰を解かれ松代に戻り、松代藩校の文武学校に入学、山寺常山に学び、かたわら父の進めにより酒井雪谷に師事して画を学んだ。
明治8年(1875)、絵の修行のため上京し、浮世絵の富岡判六、洋画の川上冬崖に師事した。同年、陸軍参謀本部図生に任用されるが、明治9年(1876)母大病のため松代に帰郷、明治11年(1878)長野県庁図生として再出発し、明治13年(1880)史誌編輯掛、明治15年(1882)駅逓御用掛兼務となる。明治17年(1884)志賀重昂が長野中学校に赴任したことで重昂との親交が始まり、明治27年(1894)に重昂の代表作『日本風景論』の表紙、挿絵を描いている。
明治18年(1885)、逓信省に出向を命じられ上京、同省駅逓局に勤務、明治25年(1892)、郵務局計理課物品掛長となる。掛長として郵便用品の改良などを担当するかたわら、通信事業に関する資料の収集・保存を行った。郵便博物館が創設されると同館の主任として勤務し、大正12年(1923)に退官するまで、郵便創業関連資料の収集、江戸時代の飛脚や街道など通信・交通関係資料の収集、電気通信資料の収集を行った。また、切手・はがき原画制作、特殊通信日附印の印面作成なども担当した。鉄製赤色ポストの開発にも関与していたとみられる。退官時には自ら収集した交通関係資料321点を博物館に寄贈、その後も通信・交通に関する研究を行い、『交通』、『逓信協会雑誌』、『交通文化』等に論文を発表し続け、昭和18年(1943)8月13日、86歳で没した。樋畑雪湖の幅広い博物館活動に対し「博物館創立の功労者」という評価が与えられ、昭和37年(1962)には逓信総合博物館60年記念として樋畑雪湖展も開催された。主な著書に、『日本郵便切手史論』(日本郵券倶楽部、1930)、『江戸時代の交通文化』(刀江書院、1931)、『日本交通史話』(雄山閣、1937)、『日本駅鈴論』(国際交通文化協会、1939)などがある。博物館において、樋畑雪湖が収集、整理、展示等を行った資料は通信・交通に関連する分野全般に及んでおり、その多岐にわたる雑多な業務を担当した雪湖は、まさに日本における博物館学芸員の草分け的存在と言えるのではないだろうか。
所蔵資料の変遷
⑴ 郵便博物館時代の資料収集
博物館的な資料収集は、郵便博物館の母体となった郵務局計理課物品掛が明治25年(1892)に設置された当初から行われていた(11)。同掛は、物品及び郵便切手類の調製・配給を行う傍ら、機器機械類の改良・考案・設計を担当していたが、そのために必要な参考品を収集し、30㎡の参考品室に整理・展示していた。明治30年(1897)には、諸外国の郵便用品の調査研究を目的に、万国郵便連合加盟国に参考資料の寄贈を依頼し、ポスト、制服、郵便用品等の送付を受けている。このように収集した資料が増加したため、2,640㎡の陳列所を兼ねた参考品室が明治32年(1899)に設けられた。同時期に篤志家からの伝馬文書その他の交通関係資料が寄贈され、電気試験所が保管していた電信機、電話機類、外国郵便課で保管していたUPU交付の外国切手類も移管された。
明治33年(1900)の陳列品原簿には既に「郵便博物館」という名称が記載されていることから、明治32年(1899)には、一般公開はしていないものの、実質的に郵便博物館としての活動が開始されていたと考えられる。この原簿によると当時の資料数は約600点であり、その大半は「創業時のポスト」など国内外の郵便に関連した資料であるが、駅逓局所管資料として「五街道分間延絵図」、上野~高崎間、京都~神戸間などの「鉄道線路図」が陳列されていたことが分かる。
明治35年(1902)6月郵便博物館が開館し、最初の展覧会「万国郵便連合加盟25周年祝典記念展覧会」が開催された。その展示に際し、東京帝室博物館から「伊達政宗よりローマ法王への書簡」など10数点の出品があったほか、部内外から約300点の資料が出品された(12)。その出品資料の多くは展覧会終了後逓信省に寄贈され、郵便博物館に収蔵されることになった。
⑵郵便博物館から逓信博物館へ
郵便博物館は、開館後日露戦争の影響でしばらくはその活動が停滞したが、国内では博物館施設が希少な時代にいち早く創設されていたことから、部内外からその存在は重要視され、明治42年(1909)逓信省庁舎の新築に合わせて新しい博物館施設が同庁舎内に設けられた。新博物館は、従来からの郵便、電信、電話の展示に、電気、海運、航路標識、駅制等の資料を加えて展示したため、逓信事業全般を網羅する博物館として、名称も「逓信博物館」と改められた。
これを機会に、逓信事業に関連する有益な資料を収集するため、明治44年(1911)5月、「逓信博物館陳列品寄贈及び出品手続」が次のとおり定められた。

また、同時に、逓信次官から各府県知事に、運輸交通に関する資料参考品の寄贈、出品の勧誘を依頼するという、今では考えられない方法で資料収集が行われている。次の文書は逓信省の総務部長から部内各所長に通達した文書であるが、このうち博第1号(明治44年5月15日)が各府県知事への依頼文書である。

それ以降、日英博覧会出品物の返還品、欧州各国からの新収蔵品を加え、大正元年(1912)には、郵便切手類以外に6,800点を超える展示品を持つに至った。主な概要は次のとおりである。

⑶ 飯田橋の逓信博物館
大正11年(1922)3月、富士見町(飯田橋)に移転した逓信博物館の展示室は増加した資料を展示するため13室に及んだ。各室の陳列区分と主な展示資料は次のとおりである。


⑷ 大手町へ移転
飯田橋の逓信博物館の建物は、移転した当時としてはモダンな洋館として国内でも主要な建築の一つに数えられるほどであったが、老朽化が進んだため、新たな博物館構想が検討されることになった。昭和32年(1957)には、通信・放送の総合博物館を目指す逓信総合博物館建設計画が提案され、建設委員会が発足し、昭和39年(1964)、郵政省、日本電信電話公社、日本放送協会、国際電信電話株式会社の4機関による共同運営の「逓信総合博物館」が大手町に完成した。
逓信総合博物館の延床面積は13,500㎡で、総工費8億円、建築に1年10ヶ月を要した。エレベータ、エスカレータ、冷暖房付で資料室、教室、会議室、映写施設のある講堂、図書閲覧室などがあり、当時としては最新の設備を備えた大きな博物館であった。
⑸ 他官庁への資料の移管(13)
逓信博物館は、これまで逓信省時代に所掌していた電気・管船・灯台・航空等に関連する多数の資料を展示していたが、昭和18年(1943)に逓信省の所管外となった船舶、航空、電気等の事業に関連する資料については、その時点から一般公開を中止し、それ以降は国立科学博物館や交通博物館(当時)(14)などの要請があったときにのみ出品展示を行っていた。これらの資料は、大手町への移転計画の中で「必要とするところで有効に活用してもらうのが好ましい」との意見があり、逓信省と運輸省、文部省で協議の上、昭和40年(1965)にその大半が運輸省と文部省へ移管された。運輸省に移管された資料は、船舶模型ほか536点で、交通博物館(当時)と船の科学館に譲渡され、文部省に移管された資料は、電流計など電気関係資料62点で、こちらは国立科学博物館に譲渡された。
⑹ 大韓民国への資料引渡し
昭和40年(1965)12月8日、我が国と大韓民国の両国間に「文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」が批准され、この協定に該当する資料約20点が逓信博物館から外務省へ移管された。
移管された資料は湖南電報局看板、電報司標札、逓伝夫帽前章額、郵電線路図本、郵逓司日附印などである。
⑺ 逓信総合博物館以降の資料収集
大手町移転後は主に郵政部内資料の収集に努めてきたが、その一環として、全国の郵便局を対象に調査票を送付して残存する郵便局資料の調査を行い、昭和61年(1986)、館外資料目録を作成している。収集した主な郵便局資料としては、袋井郵便局資料、赤坂郵便局資料、三島郵便局資料、石部郵便局資料、久住郵便局資料などがある。これらには郵便創業期からの連続した業務関連文書が含まれており、郵便史研究の上で大変貴重なものとなっている。袋井、赤坂、三島等の創業期資料については、その一部を資料図録、研究報告書として刊行している。
地方郵政局関連では、北陸郵政局資料、北海道郵政研修所資料がある。これらは、管内の郵便局から移管された資料がほとんどで、文書類のほか、雪道の集配に使用するスキー、かんじき、はかり、時計、提灯など業務に使用した郵便用品が含まれている。
郵政本省からは、雑誌『郵政』表紙原画、簡易保険扇子原画、郵政省以降の郵便切手・はがき原画、周知用ポスター、郵便局員制服等を収集した。また、郵政公社図書室が民営化に伴い閉鎖される際、所蔵図書の中で特に貴重なもの約15,000点を収集している。
また、郵便創業の父「前島密」に関する新たに発見された資料についても収集を行った。この中の明治3年(1870)と4年(1871)に書かれた書簡は、前島密が郵便を創業する前後のものであり、非常に貴重である。電気通信関係では、平成5年(1993)に「逓信省時代の通信の歴史に関する調査研究」(15)を日本電信電話株式会社、国際電信電話株式会社と共同で行い、黎明期の有線電信、無線電信、電話に関する所蔵資料の再評価、資料収集を行った。更に、幕末から明治初期の電信機について、通信総合研究所と共同研究を行い、「平賀源内のエレキテル」の原理解明と機能模型の製作、「ペリー提督献上のエンボッシング・モールス電信機」、「ブレゲ指字電信機」、「榎本武揚のディニエ印字電信機」の通信機能回復と通信実験、「エンボッシング・モールス電信機用ダニエル電池」の復元を行っている。

所蔵資料の分類
郵政資料館では、所蔵資料を「一般資料」、「図書資料」、「写真資料」、「日本切手」、「外国切手」の5つのデータベースで管理している。
郵便切手については、昭和60年(1985)からコンピュータによるデータ管理を始め、平成4年(1992)にミュージアムデータシステム(ワークステーション)による運用を開始し、平成9年(1997)には展示場と連動したクライアントサーバシステムの切手データベースを完成させた。平成12年度には「図書資料」、「写真資料」、「一般資料」のデータベースを構築し、平成16年(2004)からは美術館用ASP(16)を利用してデータを管理・運用している。このデータベースには、現在、一般資料33,330点、図書資料32,462点、写真資料12,368点、日本切手6,488点、外国切手321,076点、計405,724点のデータが登録されている。資料分類は後掲の表1のとおりである。
主な収蔵資料
所蔵資料を内容別に見ると、①郵政事業(郵便・貯金・保険)関係資料、②郵便創業以前の通信・交通等に関する資料、③電気通信等に関する資料④電気・管船・灯台・航空・鉄道等に関連する資料⑤美術資料に大別される。
⑴ 郵政事業関係資料
郵政三事業(郵便・貯金・保険)の創業から現在に至るまでの各時代の状況を示す実物資料と関係文書類である。
この中で最も大きな比重を占めるのが郵便切手である。日本切手は郵便創業時に発行された竜文切手から現在発行されている切手まで約6,500種、外国切手は既に存在していない国も含めて255カ国(地域)約32万種を所蔵している。
郵便創業期の重要な文書資料としては、「正院本省郵便決議簿(第壱号、第弐号)」、「駅逓改正草稿」、「紀事編纂原稿」、「駅逓明鑑」、「郵便切手類沿革志」「前島密自伝草稿 行く道のしるし」などがある。
創業期の代表的な用品資料としては、創業時に使用された都市用と街道筋用の郵便ポスト「書状集め箱」、機器類としては「自働郵便切手葉書売下機」がある。
その概略は次のとおりである。
⒜ 正院本省郵便決議簿(第壱号、第弐号)(17)(図3)
正院本省郵便決議簿は、郵便創業時からの2年間の文書類をまとめたもので、前島密が起案した郵便創業の起案文書を筆頭に明治3年(1870)25件、明治4年(1871)93件の文書が収録されている。当初は庶務、会計、建築等様々な決議簿が存在したと考えられるが、現存するのは2冊の郵便決議簿のみである。各種決議簿が作成されたのは、駅逓寮が大蔵省に所属していた明治5年(1872)頃と考えられるが、郵政資料館所蔵の郵便決議簿は内務省の公用箋を使用しているため、駅逓寮が内務省所属となった明治7年(1874)頃に写本として作られたもの考えられる。
⒝ 駅逓改正草稿(18)
明治3年(1870)から明治4年(1871)までの駅逓、郵便に関する決議文書を写したもので、前島密の後任となった杉浦譲が所持していた。新式郵便施行のための準備状況等を知ることができる。
⒞ 紀事編纂原稿(19)
明治元年(1868)から明治6年(1873)までの駅逓、郵便に関する事項を年表的に記録したもので、第1冊から第5冊までが本編(駅逓)、第6冊から第8冊までが郵便編となっている。「駅逓志稿」(大日本帝国駅逓志稿・同考証)編纂時に作成した駅逓志料の一部である。
⒟ 駅逓明鑑(20)
農商務省駅逓局が、郵便を含む交通・運輸・通信に関する各種決議簿より明治元年(1868)から明治5年(1872)までの決議文書を採録・編集、明治15年(1882)に「駅逓明鑑」と題して出版したもので、全11巻(10冊)に及ぶ。郵政資料館と国立公文書館が原本を所蔵している。
⒠ 郵便切手類沿革志(21)
郵便切手類の沿革を解説し調製決議文書と切手類を収録したこの資料は、明治前期の郵便切手類の発行に関する決議書綴とも言えるもので、明治4年(1871)から明治27年(1894)までを記録した正編の「郵便切手類沿革志」、その別冊で切手類の製造枚数や費用、販売枚数、収入金額等を記録した「郵便切手類沿革志附録諸表」、明治28年(1895)から明治34年(1901)までを記録した続編「続郵便切手類沿革志」から成っている。内容は、切手、はがき、封皮、帯紙、電信切手、飛信逓送切手等の沿革を編年的に列挙し、その根拠となる回議文書を掲載している。これらの沿革志は、逓信省が廃止となった切手やはがき等の使用を明治22年(1889)に禁止したため、各国の郵政庁等から郵便切手の沿革についての質問や参考のための寄贈を求める依頼が相次ぎ、その煩雑な手数に悩まされた同省が、その対策として編纂したものである。
⒡ 前島密自伝草稿「行き路のしるし」(22)
前島密が明治14年(1881)に退官した直後に書いた自伝草稿で、出生、幼少時から郵便創業、駅逓総官を退官するまでのことが書かれている。
⒢ 書状集め箱(23)
書状集め箱は明治4年(1871)の郵便創業時に設置された最初の郵便ポストである。市内用と街道筋用の2種類があり、「市内用」は東京市内に12ヶ所、京都市内に5ヶ所、大阪市内に8ヶ所設置され、「街道筋用」は東海道の各宿駅に「上り方」と「下り方」の各1、計2個ずつが設置されている。市内用・街道筋用とも白木のままで、字は墨色である。支柱の下方は土中に入り固定され、箱と掲示板は見守人が朝夕出し入れをした。郵便切手を貼らずに封筒に現金をくくりつけて郵便差出箱に投げ込む者や、書状を路上の郵便ポストに投函することに不安を感じて、集配人が取集めに来るまで物陰から見張っている者がいたという話が残っている。
⒣ 自働郵便切手葉書売下機(24)
明治37年(1904)に製作された切手とはがきの自動販売機で、現存する日本最古の自動販売機と言われている。この機械は、投入されたコインの作用だけで作動するという江戸時代からのからくりの技術で作られており、動力は全く使われていない。向かって右側が3銭切手、左側が1銭5厘はがきの発売口で、在庫がなくなると「うりきれ」と表示される。下半分は郵便ポストになっており、つり銭口の下に差入口が付いている。
この機械を考案したのは山口県赤間関(現在の下関市)の俵屋高七という発明家である。俵屋高七は明治23年(1890)に「煙草やその他の物品の自動販売機」の特許を取得しており、日本最初の鉄製赤色ポスト(俵屋式ポスト)の考案者でもあった。
1 井上卓朗「新たに発見された東大寺文書」(『郵便史研究』第27号、2009年3月)pp. 42~47。
2 K-8型機(初期のカッパ型ロケット)搭載用プラズマプロローグ測定機。
3 万国郵便連合(Universal Postal Union):1874年設立、日本は明治10年(1877)に加盟。
4 中央区銀座8‒20‒26、現在の郵便事業㈱銀座支店の位置。
5 港区芝公園2‒5‒20、現在のメルパルク東京の位置。
6 但し、写真資料だけは、展示に必要なもの以外を逓信省内の写真室に保管していたため、震災によって焼失してしまった(逓信博物館『逓信博物館75年史』信友社、1977pp.103~104)。
7 逓信総合博物館(ていぱーく)は、昭和39年(1964)12月に郵政省、日本電信電話公社、日本放送協会、国際電信電話株式会社によって設立され、現在は日本郵政株式会社・NTT東日本・日本放送協会の3機関で共同運営を行っている。郵政資料館はその中で郵政部門を担当している。
8 樋畑正士「樋畑雪湖(正太郎)の履歴(草稿)」(2002)、『逓信博物館75年史』、横山要『樋畑雪湖年 譜』(非売品、1982)、郵便文化史刊行会『日本の郵便文化選書解題』(示人社、1983) pp. 173~ 184、中村日出男「樋畑雪湖」(『郵政』12月号、郵政弘済会、1993) p 71。
9 真田藩士。文化10年(1813)生。能役者、鼓の技は奥義に達していたという。画才があり歌川国芳 の門下で画を学ぶ。ペリー来航時を描いた絵図で知られている(『もしもし80年 異聞東京史』東京 新聞、1969)。
10 『米国使節彼理提督来朝図絵』(樋畑雪湖、1931)
11 『逓信博物館75年史』pp. 11~15。
12 『万国郵便連合加盟25周年祝典記念展覧会出品目録』(逓信省通信局、1902)。
13 『逓信博物館75年史』pp. 212~216。
14 現・鉄道博物館(埼玉県さいたま市)。
15 「日本最初の工学博士 志田林三郎」の業績再評価からスタートしたもので、東海大学教授若井登氏 を中心として研究を行った。研究報告書として『逓信省時代の通信の歴史に関する調査研究報告書』 (1993)、出版物として若井登・高橋雄造編著『てれこむノ夜明ケ』(1994)がある。
16 自館の資料データベースを、事業者の所有するサーバと博物館・美術館用アプリケーションソフトを使用して、インターネットを通じて利用するApplication Service Provider。
17 『郵便創業時の起案文書 正院本省郵便決議簿 第壱号』(郵政研究所附属資料館、1991)。
18 土屋喬雄編『杉浦譲全集』第3巻(杉浦譲全集刊行会、1978)。
19 『郵便創業時の年表 駅逓紀事編纂原稿』(郵政省郵政研究所附属資料館、1990)。
20 『郵政百年史資料』第12巻(吉川弘文館、1968)。
21 『郵便創業期の記録 郵便切手類沿革志』(郵政省郵政研究所附属資料館、1996)。
22 橋本輝夫監修『行き路のしるし 前島密生誕百五十年記念出版』(日本郵趣出版、1986)。
23 『資料図録No.1:郵便差出箱(ポスト)のうつりかわり〈その1〉』(1974)、『資料図録No.39:郵便ポストのうつりかわり〈その1〉』(1989)
24 『切手・はがき自動販売機 動作調査報告書』(1973)。