逓信建築・郵政建築とは

駅逓と電信からなる「逓信」

逓信省ができたのは、内閣制度の発足と同じ明治18(1885)年12月22日のことです。地図記号の「〒マーク」が逓信省の「テ」からきているのはよく知られています。かつての農商務省の駅逓局と工部省の電信局・燈台局を合わせてできました。逓信省は戦中・戦後の一時期を例外として、昭和24年6月1日に郵政省と電気通信省(日本電信電話公社の前身)に分離するまで、交通・通信・電気通信を幅広く管轄していました。「逓信」とは駅逓と電信を合わせた造語であることからも明らかなように、かつて郵便局は郵便だけでなく、電信事業の担い手でもあったのです。

逓信建築の古典主義時代を代表する三橋四郎と吉井茂則が設計に当たった京都郵便電信局・現在の中京郵便局(明治35年竣工。昭和53年に外壁保存)

逓信建築・郵政建築の意義

逓信省の建築が他の官庁建築と異なるのは、通信という時代を先取りする業務分野を担っていたことがあります。「お役所」「お上の建築」といった権威性よりも、合理的な建築、機能的な建築、妥当な建築が目指されました。そんな気風の中、優秀な建築家が逓信省営繕課に集まり、世界の近代建築運動とも呼応しながら独自の様式を究めていきました。

その代表格だったのが、逓信省技師の吉田鉄郎が設計した東京中央郵便局と大阪中央郵便局でした。最終的に東京中央郵便局(JPタワー低層棟に一部保存)が平成21年、大阪中央郵便局(エントランス部分のみ一部保存)が平成24年に解体されましたが、保存か解体かの議論の中で改めて逓信建築の意義が注目を集めることとなりました。

*もっとも本省や地方逓信局の営繕部門が直接設計にかかわったのは、大都市や地方主要都市における規模の大きな局舎です。本サイトで取り上げる多くの三等局(のちの特定郵便局や一部の簡易郵便局)の局舎は逓信建築や郵政建築ではありません。
*逓信省関連の施設であっても、たとえば大蔵省営繕管理課が担った旧逓信省貯金局庁舎(のちに逓信省・郵政省本省庁舎、麻布郵便局舎)は逓信建築には入りません。

逓信省技師の吉田鉄郎が設計した旧京都中央電話局(現在の新風館)

逓信モダニズムの黄金期

逓信建築がもっとも華々しい活躍をみせた時期の担い手は、大正時代の中頃に入省しました。岩元 禄(大正7年入省)、吉田鉄郎(大正8年入省)、山田 守・中山広吉(大正9年入省)、張 菅雄(大正10年文部省から転属)、上浪 朗(大正11年)などが挙げられます。大正12年9月に起きた関東大震災により、いっそうの通信施設の拡充が求められ、近代建築の手法を取り入れた建築を数多く行っていきました。中でも功績やその後の時代への影響において傑出しているのが、東京中央電信局(大正14年)などを設計した山田 守と、先述の吉田鉄郎の2氏でしょう。山田は昭和4年に、吉田は昭和6年から7年にかけて欧米へ出張して近代建築運動に触れ、逓信建築はさらに合理主義、機能主義、国際主義的な方向性を強めていきました。

*戦時中の木造逓信建築は別の機会にしたいと思います。

郵政スタイルの確立―庇の様式

逓信省が昭和24年6月1日に郵政省と電気通信省に分かれたのと同じく、逓信建築も郵政建築と電電建築に分かれていきました。郵政建築は女性的なソフトさがあり、電電建築は男性的なハードさがあるとされますが、いずれも同じ逓信建築の流れを汲みます。そんななかで、郵政建築は特に各階に庇をつけるスタイルに特徴があります。

もともと庇は吉田鉄郎が部分的に大阪中央郵便局で行った手法で、日射遮蔽・雨除けなど日本の風土に対応したものであり、火災時の上層への延焼防止・避難バルコニーなどにもなることから有益でした。意匠的にも奥深く、制作者が個性を発揮できる部分でもありました。残念ながら市役所や裁判所などの公共建築にも流用されたため、郵政スタイルが郵便局のシンボルになるところまでは行きませんでしたが、概ね昭和30年から40年代初めまでにできた局舎をみていると、「庇・連窓・真壁」という戦後の郵政のデザインポリシーに則ったものが数多くみつかります。

外務省庁舎(昭和35年)は、吉田・山田・小坂の逓信省出身の3氏がコンペに指名されたこともあり、郵政建築にみられる庇スタイルが見られる。

*本稿は郵政建築 逓信からの軌跡』(建築画報、2008年)の12-58ページを参照しました。

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