日本近代紙幣の始まりを中心に|エドアルド・キヨッソーネと大山助一

(イメージ:日本銀行本館)

新たな紙幣3種が令和6年(2024年)7月3日に導入されます。ここでは、近代貨幣に詳しい板橋健彦さんに、特にエドアルド・キヨッソーネと大山助一に焦点を当てながら、特に紙幣において残した足跡についてご紹介いただきます。

エドアルド・キヨッソーネは明治の近代的な切手印刷の始まりにおいて多大な活躍をしましたし、大山助一は明治41年(1908年)に発行された普通切手五円および十円(神功皇后)の凹版を担当したことで知られます。彼らの卓越した技術とその歴史的意義を紐解きながら、紙幣という切り口からその歴史の一端に触れていただければと思います。(編)

近代紙幣以前

日本は1868年大日本帝国に統一される以前、260を超える「藩」と呼ばれる封建領土により構成されており、将軍により統治されていた。(図1)それぞれの藩ではその藩でのみ通用する「藩札」(図2)と呼ばれる紙幣が発行されており、大日本帝国樹立の当初はまだ、各市場で藩札が通用していた。その数は1,700種以上と言われている。帝国政府もまた、経済をコントロールし資金を調達せんがために独自の政府紙幣(図3)を発行し始め、そのために通貨の状況を一層混乱、悪化させていた。

日本近代紙幣の誕生

日本近代紙幣の歴史は帝国政府により発行された「明治通宝」(ゲルマン紙幣)と呼ばれる紙幣に始まる(この段階ではまだ銀行券ではなく、政府紙幣である)(図4、5、6)。政府はこの新紙幣によって通貨制度を刷新し、藩札を駆逐して新政府の強化を図りたかった。しかしながら日本政府はまだこの時、近代的紙幣を印刷する技術を持っておらず、結果的にドイツの印刷会社、ドンドルフ・ナウマン社(ドイツ、フランクフルト・アム・マイン市)に日本のために「政府紙幣」を印刷するよう依頼することとなった。

日本は当初英国に紙幣を注文する予定であったが、ドンドルフ・ナウマン社は、同社独自の技術である凸版印刷が偽造防止に有効であることを強調し、また将来的な日本への技術移転をほのめかした。そのことが、最終的に同社への発注を決断した要因である。日本政府は1870年にドンドルフ・ナウマン社に対して1億5千万枚の明治通宝を発注することとなる(額面:100円、50円、10円、5円、2円、1円、半円、20銭、10銭)。そしてその後日本政府は、この政府紙幣を国産化するため、ドンドルフ・ナウマン社から原版と印刷設備を買い上げることとなったのである。

エドアルド・キヨッソーネ

明治通宝はドンドルフ・ナウマン社に勤務していたイタリア人彫刻官、エドアルド・キヨッソーネ(図7)により1871年に彫刻された。同氏は後に、日本の公式印刷物の発展やその歴史に重要な役割を果たすこととなる。彼はイタリア、ジェノバに生まれ、14歳から地元の美術学校、ラカデミア・リグスティカ・ディ・ベッレ・アルティ・ディ・ジェノバ(L’Accademia Ligusticadi Belle Arti di Genova)(図8)で美術を学び優秀な成績で卒業をする。22歳で卒業するとともに、母校で教授として勤務する。美術学校で勤務の後、1867年、フィレンツェにあるイタリア王国の国立銀行で勤務をすることになるが、彼はそこでドンドルフ・ナウマン社を知るに至る。なぜなら当時イタリア国立銀行も、ドンドルフ・ナウマン社に同行の銀行券開発を依頼していたからである。彼は当時設立が予定されていた国立銀行の印刷工場で勤務するため、ドンドルフ・ナウマン社に派遣せられたのである。

当時の日本政府にとっては、紙幣、郵便切手、公債、株券など正規印刷物発行のため、偽造防止印刷技術の確立が重要課題となっていた。キヨッソーネは1875年、彼がイギリスの印刷会社、トーマス・デ・ラ・ルー社(Thomas de la Rue & Company Limited)に勤務していた時に日本にやって来た(図9)。(ドンドルフ・ナウマン社の事業は1871年を境に急激に衰退をした。ドイツがプロシアの主権の元に統一され、プロシアの帝国印刷局がドイツ全土の銀行券の印刷の大半を独占したからである。キヨッソーネがトーマス・デ・ラ・ルー社に移籍したのもそれが原因である。)日本政府はその重要課題のため、破格の高給をもってキヨッソーネを雇い入れた。(当時最高水準の給与で月30円ほどであったのに対し、政府は454円を申し出た。)逆に政府にとっては、そのままドンドルフ・ナウマン社に紙幣を発注し続けることは大変な負担であり、一方それは国家の通貨制度の安全にも係わる事であった。それらの諸問題を勘案すれば、キヨッソーネの給料は日本政府にとって決して高いものではなかった。

キヨッソーネは日本の正規印刷のインフラを立ち上げ、後継者をも育成した。彼は在任中に500点以上もの銀行券、郵便切手、証券などを残し、また、多くの「時の人」の肖像銅版画を残すに至った。宮内省からの依頼に応じ、明治天皇(図10 a、b)の肖像を作成し、2,500円の褒賞金を受けた。1891年に契約を満了した時には退職金3,000円、年金1,200円を政府から受け取り、別途大蔵大臣からは特別年金月額1,000円を授かった。しかしながら彼は、それらの収入の大半を日本の美術品収集のためにつぎ込み、15,000点以上をコレクションした。それらすべてのコレクションは、現在ジェノバ市の美術館、エドアルド・キヨッソーネ東洋美術館(Museod’ Arte Oriente Edoardo Chiossone)で公開されている(図11)。

日本銀行1円券(漢字1円)

日本銀行1円券(図12-a、b)は1889年に発行を開始したキヨッソーネの作品の一つであり、右上/左下に漢数字で記号が、左上/右下に漢数字で番号がそれぞれ赤文字で印刷されている。肖像は5人の天皇に仕えた伝説の人物、武内宿禰(たけのうちのすくね)である。この紙幣は1円銀貨(図13-a、b)との交換が保証された兌換銀券(現行紙幣)で、その裏面には兌換文言と共に1円銀貨(銀品位900、416グレイン)が彫刻されている(図14)。漢数字の記号1から150まで発行された。

日本銀行券1円券後期(アラビア数字1円)

その後この紙幣は1916年に後期型(図15)に改変され、アラビア数字の記番号に変わっている(記号は151から446)。そして肖像はキヨッソーネの同僚であった大山助一の彫刻に変更されている。キヨッソーネによる彫刻の肖像はヨーロッパ人的であり、大山助一によるそれは日本人的である。現存する全ての書籍、カタログの類は、前期型と後期型の違いをこのように説明している。

しかしながら最も興味深いことは、キヨッソーネによる彫刻の肖像が、記号151から199の間に無秩序に存在している事実である(図16)。日本ではわずかなコレクターしかこの事実を知らず、研究者に至っては全くこの事実を調査していない。私自身どれほどのキヨッソーネによる肖像が混在しているのか、またなぜなのかを推測することは出来ない。これは日本紙幣の興味深い謎の一つである。

大山助一

大山助一(1858-1922)(図17)はキヨッソーネの後継者であり、類まれな才能を持ち合わせた彫刻官である。彼は鹿児島藩(薩摩藩がその前身)に生まれ、1871年、13歳で横浜の高島学校に入学し英語を学んだ。そして1872年に13歳から24歳の少年17名で構成される留学使節団の一員(図18)となり、米国に派遣された。彼らの大半は薩摩藩(現在の鹿児島県)や長州藩(現在の山口県)など南部の藩の藩士の家の出であった。これは彼にとっては西洋の文化に触れる、またとない機会だった。

彼は英語の他、美術の才能があったため、1876年に米国から帰国後政府の美術学校に、また更に翌年には大蔵省の帝国紙幣局に入局する機会を得ることが出来た。そこで彼はキヨッソーネからヨーロッパ技法の彫刻を学ぶこととなる。そこで頭角を現し、後を暗示する秀逸な作品を残すのである。そして8年後、日本政府は更に技能を磨かせるため、1885年米国財務省製版印刷局(the Bureau of Engraving and Printing, the Treasury Department of the United States)(図19)に派遣をする。

彼はそこで研修生として働き、新たに5年の間アメリカ技法の彫刻を学んだ。1890年3月頃、彼が米国から帰国した時には、キヨッソーネはまだ帝国紙幣局で働いていた。大山はアメリカ技法に慣れ親しんでおり、キヨッソーネと大山の間には技法をめぐって何らかの対立があった事も容易に想像が出来る。大山は1891年2月、帝国紙幣局を辞し、ニューヨークのアメリカン・バンクノート社(American Bank Note Company Ltd.)(図20)に職を得ることとなった。それはおそらく、米国財務省製版印刷局に勤めていた時の人脈を得てなされたものと思われる。

大山はアメリカン・バンクノート社在職中に、数多くの優れた肖像彫刻を残している。その多くは米国、カナダの他、特にラテンアメリカ諸国の銀行券、収入印紙、証券などに使用されている。米国では彼を「ジャパニーズ・オオヤマ」と称し、彼の優れた作品を讃えている。アメリカン・バンクノート社に9年間勤務の後、彼は1900年1月に帰国し、帝国紙幣局の主任彫刻官に任官している。それは1898年にエドアルド・キヨッソーネが日本で逝去した後の事であった。言うに及ばず、彼は多くの同僚や後継者に影響を与え、生涯帝国紙幣局の主任彫刻官の地位にあった。

日本のコレクターの今般の状況について

近年日本政府は、毀損した紙幣を入れ替えるため定期的に紙幣を発行している。しかしながら日本では歴史上インフレ率が低いため、かつては傷みきるまで紙幣を使用していた。そのため日本紙幣のきれいなコレクションを作ることは大変難しいことであり、結果的に紙幣のコレクターはコインのコレクターに比べ数が少ない。(コインは投資としても魅力的であろう。)私は日本で、コインコレクターのグループと紙幣コレクターのグループの双方に属しているが、どちらかといえば紙幣の方が好きで、より親しんでいる。そのため今回は世界の研究者やコレクターの皆さんと共有するため、あえて日本紙幣に関して紹介させて頂いた。そして私が大山助一を話題に選んだのは、日本とラテンアメリカ諸国との固い絆を確認するためでもあった。

末筆ではあるが少なからず大切な事に、私がこの雑誌に投稿する機会を与えてくださった、国際通貨博物館館長のファビアン・ダリオ・バハーモ氏に感謝の意を捧げる。

参考文献
「日本紙幣収集事典」(2005年、原点社)
「日本貨幣カタログ」(2019年、日本貨幣商協同組合)
「日本紙幣の肖像やデザインの謎」植村 峻著(2019年、日本貨幣商組合)
「日本通貨図鑑」利光三津夫、植村 峻、田宮健三編・共著(2004年、日本専門図書出版)
「我が国の紙幣印刷近代化に貢献した人々」植村 峻(2019年、第30回東京国際コイン・コンヴェンション記念講演)
「乙百円誕生の軌跡」令和元年度第2回特別展解説書(2019年、お札と切手の博物館)
「お札と切手の博物館ニュース第13号」(2013年、お札と切手の博物館)

板橋健彦(貨幣愛好会 管理人)
1966年東京生まれ
デグサAG(ドイツ)、デンツプライ三金株式会社(米国)、へレウスクルツァー・ジャパン株式会社(ドイツ)などで、凡そ30年間海外営業やマーケティングに携わり、海外に出張する間に紙幣に興味を持つ。現在はネット上で貨幣愛好会を運営する。

本記事は令和6年(2024)7月3日の新紙幣3種発行を記念して、貨幣愛好会のご厚意により本サイトに記事転載をいただきました。なお、本記事は当初英語で執筆されたのち、スペイン語訳されて、コロンビアにおける国際通貨博物館の刊行物”El Tinto Numismático Vol I No 3 Año 2021“に掲載されました。

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