「日本文明の一大恩人」前島密の思想的背景と文明開化(前)

「日本文明の一大恩人」前島密の思想的背景と文明開化(前)

井上卓朗
郵政博物館 研究紀要 第11号(2020年3月)

【1】はじめに「日本文明の一大恩人」

前島密(1835~1919)は1円切手印面の肖像として親しまれ、日本の郵便の父として広く一般に知られている。しかし、大正11(1922)年に建立された前島密の生誕記念碑の碑文(1)には「日本文明の一大恩人」として、次のように称えられている。

「日本文明の一大恩人がここで生まれた。この人が維新前後の国務に功績の多かったほかに明治の文運に寄与して永く後世に伝うべきものは郵便その他の通信事業である。これまでは緩慢な飛脚便によった手紙が迅速に正確に頻繁に集配せられるようになり、小包郵便・郵便為替・郵便貯金の制度の出来たのもみなこの人の賜である。海運業や新聞界の先駆者であり、電信・電話・鉄道の開通の殊勲者でもあり、ことに日露役より先に敷設された朝鮮の鉄道の計画者であった。また、早稲田大学・盲唖学校の教育事業や、保険・海員掖済などの社会的事業に対する顕著な貢献や、率先して東京遷都を主張したり、維新前から漢字の廃止を唱えたほどの非凡な先見はいつまでも忘れることは出来ない。忠実で果敢で廉潔で趣味は博かった。  大正八年四月 没年八十五 大正十年十月」

この碑文にある前島密とは、どのような思想の持ち主で、どのような人生を歩んだ人物なのだろうか。明治政府出仕後の人生、彼の功績等はこの碑文に記されているとおりである。
本稿では生誕記念碑に「日本文明の一大恩人」と称された前島密の思想的背景と文明開化について、その半生を振り返りつつ述べることとする(2)


(1)新潟県上越市の生家跡に建てられた前島記念館の隣に「男爵前島密君生誕之処」と刻まれた生誕記念碑(大正11(1922)年除幕)が残されており、その石碑の裏に、前島の功績と人柄を称える碑文が刻まれている。その選文は市島謙吉で、坪内逍遥・会津八一が草案の作成に当たった。表面は渋沢栄一、背面は阪正臣の書である。
(2)本稿は、シンポジウム(2019年5月25日開催)における講演の要旨であるが、その講演内容は井上卓朗『前島密 創業の精神と業績』(株式会社鳴美、2018)をベースとしているため、本稿と重複する部分が多いことをお断りしておく。

水滴のイメージ

【2】前島密の思想を構築した前半生

(1)  房五郎の時代(幼少期)

前島密は、天保6年1月7日(1835.2.4)、越後国高田藩に隣接する幕府直轄領(川浦代官所支配)の農民上野助右衛門(同年8月11日病没)の次男として生まれ、幼名を房五郎といった。母は高田藩士伊藤源之丞の妹てい(貞)であった。4歳のとき、母は房五郎を連れて上野家を離れ、実家のある高田城下に戻り、裁縫などの仕事で生計をたて、錦絵や往来物で房五郎を教育した。
天保13(1842)年、7歳の春に糸魚川に移住し、糸魚川藩の藩医で叔父の相沢文仲(3)に養われ、医学を志した(4)。そこで銀林玄類(5)、竹島穀山(1804~1861)(6)、直指院老和尚から学問や作詩吟詠を教えられ、房五郎は幼少ながら風流を解するようになった。竹島穀山の俳句の会の給仕によばれ、夕暮れの枯木に鴉が宿るのを見て「夕鴉しょんぼりとまる冬木立」と詠んだところ称賛され賞品を与えられた。喜びのあまり母に報告したところが、母は色を正して「世には幼弱にして文を解し、書を能くし、人の賞詞を受くる者あり。然れども成長の後は多く凡庸の人と為りて、嗤いを招くもの多し、汝が今日の事、之に類似せずや。甚だ恐る、汝が之に自負の心を生じ、他日を誤るあらんことを」(7)と叱った。幼いころ人にほめられ、自分の才能におぼれてしまい大成しなかった人が多い。あなたもこのようなことになるのではないかと思うととても心配だと戒めたのである。前島密は、この教えを「生涯の訓戒」とした。
そのころ、江戸の大儒安積艮斎の門に学んだ倉石典太(8)が郷里の高田に帰り私塾を開いていた。これを知った房五郎は倉石塾への入門を母に願った。母は「汝不幸生後八ケ月にして父を亡ひ、独り母の手に依て乏しき養育を受け、茲に初めて就学の道に上らんとす、真に喜ぶべし。請ふ克く健康に、克く勉励に、師教を奉じて男子たれ。誓って父無き者との嗤いを取る莫れ」(9)と涙ながらに諭し、単身での就学を許した。
弘化2年3月(1845.4)、10歳の房五郎は老僕を伴って糸魚川を後にし、高田へと向かった。しかし、髙田の伊藤家には喜ばれず、やむなく下池部の生家(上野家)に移り、そこから二里離れた高田の塾へ通学して勉学に励んだ。
2年が過ぎ12歳となった房五郎は、江戸に出て最新の医学を学ぼうと決意した。母は「江戸遊学の医生中には按摩を夜業とし、苦学大成せし者有りと聞く。精神一倒何事か成らざらん。一旦方針を定めて前進せんとす。何ぞ其歩を躊躇せんや。此事たる冒険不安の挙なりと雖も、僻地に屈して成す無く、生きて益なきに勝る」(10)と勇気づけた。果断な母の言葉に、房五郎はその意志を強固にして弘化4(1847)年江戸遊学の旅に出た。


(3)相沢玄伯分家相沢玄弘の養子、紀州華岡青洲の門下生(倉又市朗編「近世郷土名士伝(一)」『月刊糸魚川便り』第4号(1936年6月))。
(4)「自叙伝」『鴻爪痕』(財団法人前島会、1920、改訂再版、1955)6頁
(5)外科医、埼玉県知事、北越鉄道社長銀林綱男の父。
(6)糸魚川藩士、武芸の諸芸に達し、詩書画、茶道、華道に精通。
(7)「自叙伝」『鴻爪痕』7~8頁
(8)倉石侗窩(1815~1876):天保13(1842)年髙田城下長門町に文武済美堂を開く。
(9)「自叙伝」『鴻爪痕』8~9頁
(10)同上10頁

(2) 房五郎の時代(少年期)

弘化4年9月(1847.10)江戸に着いた房五郎は、一ノ関藩儒都沢亨(徹)、本銀町開業医上坂良庵(11)、幕府官医添田玄斎(12)のもとで雑用をしながら学問を続けた。到着早々、文房具や雑用品を買いそろえたため、手持ちの残金は三か月の学費にも足りなかった。
叔父相沢文仲の死後、同じく相沢家で医学を目指していた伊藤家の息子文徳と相続をめぐり争いとなり勝訴したが、江戸で学問を続けるため、上野家に復籍したのち江戸に戻った。
南槙町(現在の八重洲)に住む幕府官医の長尾全庵(13)の家に寄食し、極貧の生活が続いたが、水戸浪士桜任蔵(14)と日本橋四日市に店を持つ達摩屋伍助(五一)(15)の世話で、政治・兵法・西洋の事情などの本を書き写す筆耕の仕事をもらい、その報酬でなんとか生活が出来るようになった(16)。当時、幕府の出版物の検閲が峻酷であったため、政治兵法等は勿論、其他の雑書も筆写本によって売買されていた。
達摩屋五一は古書肆の主人で、嘉永 3(1850)年に四日市に開いた店は珍書屋の名で知られ、蒐書の質の高さから好事家の集う所となっていた(17)
桜任蔵は常陸国眞壁出身で、藤田東湖に学んだ勤皇家であり、活動資金を得るために写本業を営んでいた。写本・筆耕・製本などを行い、多数の奇書、珍書、貴重書を所蔵していた(18)。貧しい書生たちにとっては写本の下請けが収入源の一つであり、房五郎もその一人だった。筆写した中でも「三兵答古知幾(サンペイタクチーキ)」(19)は、輸送、部隊間の通信連絡法、歩兵が背負う背のうの重さなど、物流の仕組みを考える上で役に立ったという(20)


(11)蘭方医と思われる(緒方富雄「川本幸民と蘭学者たち」『日本医史学雑誌』第17巻第3号(日本医師学会、1971)259頁)。
(12)江戸幕府寄合医師添田玄成(添田玄春の父)か(深瀬泰旦「江戸幕府寄合医師 添田玄春の医学と医療」『日本医史学雑誌』第60巻第3号(日本医師学会、2014)261~284頁)
(13)幕府奧医師の家系(長谷川強「(翻刻)旧三井文庫本『耳嚢』(巻一)」『国文学研究資料館調査研究報告』第9号(国文学研究資料館、1988)190~191頁)。
(14)本名は小松崎真金(1812~1859)『根本正顕彰会会報』78号(根本正顕彰会、2015)。
(15)文化14(1817)年に、岩本文三郎の五男一女の末子として築地南小田原町にうまれ、慶応2(1866)年没。「燕石十種」の編集者。国文学資料館蔵書印データベース人物情報(http://dbrec.nijl.ac.jp/CSDB_12826)(最終閲覧日:2019年12月29日)。
(16)「余は達摩屋の写字に依て当時の世態人情を知り、桜井氏の筆耕に依て和蘭の兵式、或は西洋の事情をも少しく窺ひ知るを得たり。是れ余が不才ながら開国主義に一歩を入れたる発端なれば、漢学大儒の門に入りて教授せられたるにも優れる快事なりとす」(「自叙伝」『鴻爪痕』15頁)。
(17)彼の蒐集した珍書を編集した「燕石十種」は風俗に関する貴重な文献となっている(閻小妹・氏岡真士「『杜騙新書』と南方熊楠」『信州大学人文社会科学研究』10巻(信州大学人文社会科学研究会(2016)117頁)。
(18)岸本美緒「『夷匪犯境録』の形成と流伝」『お茶の水史学』第61巻(お茶の水女子大学文教育学部人文科学科比較歴史学コース内読史会、2018)97頁、鈴木常光『桜任蔵―維新に散った草莽の奇士―』(筑波書林、1980)55~61頁
(19)プロシアのハインリヒ・フォン・ブラント将軍の原著をオランダ人イ・ファン・ミュルケンがオランダ語に訳し、それを高野長英が訳した兵法書。三兵とは歩兵、騎兵、砲兵を指し、タクチーキとは用兵術のことをいう(京都外国語大学附属図書館世界の美本ギャラリー(https://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/ora-13.htm)(最終閲覧日:2019年12月29日)。
(20)「成るべく反訳書を多く写させて貰ひたいと懇望して、いろいろの物を写した為め、早く西洋の事に通ぜられた。当時和蘭の「三兵タクテーキ」と云ふ兵書の反訳が頻りに持て囃され、翁は之を三度まで写された。三度目には自然内容の大略が解つて来て、人に向つて三兵の講釈をすることが出来た」(「逸事録」『鴻爪痕』246頁)

波のイメージ

(3) 房五郎の時代(青年期)

嘉永6(1853)年、アメリカ使節ペリー提督が軍艦4隻を率いて浦賀に来航した。日本国中が騒然となる中、18歳の房五郎は口入屋で接見役井戸石見守の従者となり浦賀港に赴いた。そこで見た艦隊の艦列や上陸した士卒、停泊地の位置から、彼らは臨戦態勢であり状況により戦闘行為に発展する危険性を感じた。この危機に際し挙国の学者、為政家は海防策を競って論議していたが、房五郎は実地を知らずに机上で論策するは愚劣として、大槻磐渓等の作文揮毫を周旋し旅費を得ると、砲台や港湾を見て回る旅に出た。しかし建言するには至らず、血気にかられての妄動は慎むべきであり、今後は学問を修め行動しなければいけないと、自らを戒める結果となった。
学問の重要性を痛感した房五郎は、安政2(1855)年、林家蔵書を閲覧しようと林大学頭の親戚筋にあたる設楽弾正家の食客となった。
そこで、弾正の兄で後に外国奉行となる岩瀬忠震から2回ほど教えを受ける機会を得た。忠震は「凡そ国家の志士たる者は、英国の言語を学ばざるべからず。英語は米国の国語となれるのみならず、広く亜細亜の要地に通用せり。且英国は貿易は勿論、海軍も盛大にして文武百芸諸国に冠たり、和蘭の如きは萎靡不振、学ぶに足るものなし」として、これからは英語を学ぶよう諭した。しかし、江戸では教師に恵まれず、英語の書籍を得ることも難しく、本格的に英語を学ぶことはできなかった。
そのため、房五郎は、下曾根金三郎に銃隊操練、大砲使用の一端を学び、また設楽家の家臣中条氏に数学を学んだ。その後、幕府御船手頭江原桂助の屋敷に移り、兵学者の槇徳之進から長沼流兵学を学んでいる。
安政4(1857)年、日本最初の洋式軍艦観光丸が長崎から江戸に回航され、軍艦教授所が開設された。同艦の運用長で軍艦教授所の教授となった竹内卯吉郎(21)が度々江原邸を訪れるようになった。竹内は房五郎を大いに励ましたうえで機関学を教授し、観光丸の機械図を与え、房五郎を軍艦教授所の生徒とした。そのうえで観光丸の試運転に規則外の見習生として房五郎を乗船させてくれた。横須賀湾に一泊した夜、竹内は雪中の甲板上で横須賀湾の重要性や海に囲まれた我が国の将来について語り、房五郎に大きな感銘を与えたのである。


(21)竹内貞基(1813~1863)

前島記念館の外観

(4) 巻退蔵の時代

そのような時期に、仙台支藩湧谷藩士桜井文二郎(1832~1879)(22)が、箱館の諸術調所で武田斐三郎が同港碇泊の米商船長を招聘し、商船とそれに関する業務を学び、その生徒をも陪席させているという情報を伝えてきた。なんとしても門下生として学びたいと、安政5年3月(1858.4)初旬、箱館行を決意した。このとき遊歴に利ありとして巻退蔵と改名している。
退蔵は、房州から海岸を巡り北上し、竹内千之助(1824~1882)(23)、芦文十郎(1812~1875)(24)らの助力で、仙台藩、南部藩、津軽藩などを廻ってなんとか箱館までたどり着いたが、到着したときは無一文となっていた。箱館奉行所の栗本鋤雲はその非常識な行動を叱責するが、彼の世話で調役の山室総三郎(25)の息子源太郎の家庭教師となり、武田斐三郎にも会うことができた。
安政6年(1859)24歳の春、入塾を許された退蔵は、ボウディッチの航海術書等で航海測量、測器の用法帆船の運転等を半年で習得、日本初の洋式商用帆船箱館丸で2年間に二度の日本周回を経験することができた。その後、退蔵は民間の回船業者や水夫の実務を学ぶため樺太まで航行している。
万延元(1860)年、時勢愈々不穏となり、退蔵は函館奉行所の向山栄五郎(黄村)に従って江戸に帰った。文久元年2月(1861.3)、ロシア軍艦対馬占領事件(ポサドニック号事件)が発生、幕府の水野忠徳、小栗忠順等がその折衝に当たっていたが、同年8月、外国奉行野々山丹後守、外国奉行組頭となった向山栄五郎が対馬に派遣されることになり、退蔵もこれに随行した。ロシア艦の去った島内は「露艦が繋泊せる遺趾たる芋崎に到れば、露国風の家屋の建築、叉は菜畝の開拓等、永遠の計に着手せるを見る。芋崎は竹敷湾中に深入し、海底平滑、岸に大艦を繋ぐべし。露艦は湾口の高処に斥候所を置き、占領防衛の設備を為せり」(26)という状態であり、退蔵は憤ると同時に、海外の脅威を実感することになった。
文久3年12月(1864.2)、幕府は横浜を再度閉鎖する目的で池田長発を正使とする横浜鎖港談判使節団を欧洲に派遣する事になった(27)。対馬占領事件の際通訳を務めた何礼之がその訳官となっており、一名の従者を許されていた。退蔵は洋行のチャンスと見て何の従者となり、筑前福岡藩のコロンビア号に乗船し江戸へと向かった。しかし、同船は汽罐の漏水等により遅延し、到着したのは使節団一行が出発した後であった。洋行の夢は露と消えたが、何礼之という英語の師を得ることができたのである。
何は長崎奉行所の英語稽古所の学頭であり、別に家塾を開いていた。退蔵はその塾長となり、元治元(1864)年何の協力を得て、貧しい学生のために「培社」という学舎を開いた。瓜生寅を塾長とし、林謙三、高橋賢吉、橘恭平、鮫島誠造などとともに勉学に励んだ。
長崎ではアメリカ人宣教師ウィリアムズやフルベッキ等から英語、数学等を学ぶ機会も得ている。
慶応元(1865)年、培社の薩摩藩士鮫島誠造から開成学校(28)の英語教授として鹿児島に来るよう要請され、藩船(29)に乗って鹿児島に赴任した。開成学校を監督する地位にあったのが大久保利通であった。
彼と歓談した際、航海学と機関学とを修めたのなら薩摩藩の海軍士官にならないかと誘われたが、前島は、自分は商船をやる、商船事業が振興せねば、国富の興隆は期待できず、海軍もその力を発揮することができない、として断っている(30)
開成学校の生徒の数は日が経つにつれ増加し、培社の塾生であった林謙三、橘恭平を呼びよせ助手とした。鹿児島では手厚く処遇されたが、藩内の情勢は倒幕一色となり、開国主義の退蔵の考えとは異なり、兄又右衛門死去の知らせを受けたのを機に帰郷した。


(22)菊地勇治「前島みちのく放浪記」『郵便史研究』第33号(郵便史研究会、2012)1頁
(23)仙台藩鍼医竹内寿伯の五子(同上、2頁)
(24)同上、3頁
(25)山村惣三郎と思われる(梅溪昇『洪庵・適塾の研究』(思文閣出版、1993)299頁)。佐倉の藩医で順天堂を創立した佐藤泰然の長男。弟に松本良順(のち軍医総監)、林董(のち駐英大使、逓信大臣)がいる(「自叙伝」『鴻爪痕』27頁)。山村家には沢辺琢磨(山本数馬)が炊夫として同居していた(同書31頁)
(26)「自叙伝」『鴻爪痕』36頁
(27)開港場だった横浜を再度閉鎖する交渉を行う使節団で、杉浦譲、塩田三郎など後に明治政府で前島密の同僚となるメンバーが含まれていた。
(28)元治元(1864)年開設された薩摩藩の洋学所「開成所」(田村省三「薩摩藩における蘭学受容とその変遷」『国立歴史民俗博物館研究報告』第116集(2004年2月)225~227頁)。
(29)この汽船の中で西郷隆盛と出会う(「自叙伝」『鴻爪痕』39頁)。西郷は第一次長州征伐後の後始末を終えて薩摩に帰る途中であったのだろう。
(30)「夢平閑話」『鴻爪痕』435頁~436頁

穏やかな波のイメージ

(5) 前島来輔(助)の時代(幕臣時代)

江戸に戻った退蔵は、平岡凞一から京都見廻組の役にあって死亡した前島錠次郎の跡目相続を持ちかけられた。退蔵は条件付き(31)でこれを承諾し、慶応2年3月(1866.4)前島家を継ぎ、前島来輔と名乗ることになった(32)。来輔は当初無役のため、近隣の若者に学問の指導を行っている(33)。来輔を有為の人材と認めた幕府開成所頭取の松本寿大夫から声がかかり、慶応2年8月(1866.9)に同所の反訳筆記方となった。同年末に松本寿大夫を介して「漢字御廃止之議」を将軍に建議している(34)
翌年5月に開成所の数学教授を拝命するが、兵庫(神戸)港開港の重要性(35)を感じ同年7月兵庫奉行所に赴任、開港事務を取り仕切った(36)
慶応3年10月(1867.11)大政奉還を知った来輔は、その不備を指摘する「領地削減の議」(37)を将軍徳川慶喜に提出している。同4年1月(1868.1)、兵庫奉行支配調役となり、反訳方を兼務するが、戊辰戦争が勃発、江戸に戻り勘定役格徒歩目付役となった。平岡凞一に属し官軍迎接役として小田原まで出張するが果たせず、江戸民生の安寧につとめ、勝海舟とともに慶喜恭順に従い奔走する。大久保利通に「江戸遷都」を献言したのはこの時期である(38)
奥羽列藩は、奥羽征討の軍を起そうとしている官軍に対し、連盟して朝廷に建白書を上奏して戦いを避けようとした。米沢藩士の宮島誠一郎(1838~1911)は、その使者として江戸を訪れ、関口艮輔(39)の紹介状を持って来輔のもとに訪れた。宮島は榎本武揚、勝海舟、山岡鉄太郎(40)、関口艮輔らに会い、関口から来輔を紹介されたのである。
宮島は「実に絶体絶命なり、承れば足下は幕吏の身分として頃日大坂行在所に赴かれたとか、奥羽二十三藩安危の決する此の場合、何等かの便宜を与へられ、我等の使命を達せしめられたい」と来輔に懇請した。当時は維新の乱後で各地に関門が置かれ、通券の無いものは陸からも海からも通行が出来なくなっていたからである。彼は来輔が「江戸遷都論」を建議するため、英国公使パークス一行に潜り込み、大坂へ赴いたことを知っていた。命がけで使命を果たそうとする宮島に心惹かれた来輔は、自分自身に危険が及ぶことを覚悟して、英国公使館から予備として与えられた無記名の通行鑑札を宮島に与えた。その上で、神戸の英国領事館にいる友人辻竹蔵の弟に仕立て、京都に潜入させたのである(41)。後年、宮島は新政府に出仕し、晩年は貴族院議員に列したが、生涯恩人として前島密を忘れなかった。前島にとっても宮島は「国歩艱難の際死生を共にしたる友人」となったのであった(42)


(31)幕臣となる際、平岡凞一に対し「大日本政府」(日本を代表する政府)に仕えるためであり、「幕府は潔く大政を京師に奉還し、以て真正なる日本大政府を建造せられん事を希ふのみ」と答えているなど、西洋の国家形態を意識した発言をしている(「自叙伝」『鴻爪痕』42頁)。
(32)公式には慶応2年11月10日(1866.12.6)江戸城「つつじの間」において相続を認められている(橋本輝夫「前島密半生記―生誕から駅逓総官退官まで―」橋本輝夫監修『行き路のしるし』(日本郵趣出版、1986)162頁)。
(33)その中にのちの衆議院議長、逓信大臣となる星亨がいた(「自叙伝」『鴻爪痕』43頁)
(34)「自叙伝」『鴻爪痕』43頁
(35)条約港の開港は国際港としての税関や保税倉庫の手続きを整備する必要があり、前島はこれを開国のための重要施策であると認識していた。
(36)伊藤博文と出会い、のちに大蔵官僚、造幣局長となるまだ少年の長谷川為治の保護を頼まれている(「逸事録」『鴻爪痕』305~306頁)。
(37)「自叙伝」『鴻爪痕』46~48頁
(38)慶応4年3月(1868.5)大坂行在所に英国ヴィクトリア女王の国書奉呈に赴く英国公使パークスの随員として大坂まで出向き江戸遷都を献言した(「自叙伝」『鴻爪痕』54~60頁)。
(39)関口隆吉(1836〜1889)徳川慶喜警固役山岡鉄舟らと同じ精鋭隊のメンバー、前島密の理解者であり命を守った恩人(「逸事録」『鴻爪痕』271~275頁)。
(40)山岡鉄舟(1836〜1888)江戸無血開城の功労者。前島密に「余地堂」の書を贈る(「逸事録」『鴻爪痕』338~339頁)。
(41)奥羽越列藩同盟交渉時に中心的な役割を果たした(「自叙伝」『鴻爪痕』60~61頁)。
(42)「逸事録」『鴻爪痕』253~257頁

コスモスのイメージ

(6) 明治維新期(徳川家公用人)

慶応4年閏4月(1868.5.22)、朝命により徳川宗家の相続が田安亀之助にゆるされ、翌5月徳川家達として駿遠参三州に七十万石を賜わることになった。来輔は家禄を返上しようとしたが「関口艮助氏、勝安房氏の意を伝へて曰く、藩老は本日足下を上げて駿河藩留守居役に任ぜり(本職は後に公用人と称す)、故に慎んで他念有る莫れ」(43)と命じられた。
来輔は新政府へはいずれ道を開くとしてひとまずこの命を受け、同年7月駿河藩留守居添役、ついで留守居役、同役が廃された後は公用人(44)となった。そのため、来輔は新政府への江戸引き渡しや幕臣の処置など旧幕府の完結処分、駿河藩の立藩事務などに奔走することになった(45)。その間の慶応4年7月17日(1868.9.3)江戸は東京と改められ、9月8日(1868.10.23)には明治と改元された。


(43)「自叙伝」『鴻爪痕』65頁
(44)藩主の身内人として対外交渉等に携わる役職であり、役金450両という重職であった(『静岡県史料一 県治紀事本末一』(明治元年~7年)内閣文庫、国立公文書館蔵)。(45)徳川家達が田安中納言(実父の田安慶頼)を後見者として明治天皇に拝謁することとなり、来輔は公用人として扈従した。二重橋外で駕を下りた幼い亀之助は皇居となった江戸城を見て「これはどなたのおうちか」と問うたという(「自叙伝」『鴻爪痕』67頁)。

(7) 明治維新期(遠州中泉奉行)

来輔は明治2年1月(1869.2)、公用人から遠州中泉奉行に任ぜられた(46)。駿河藩、静岡藩の役名便覧(47)によると、明治2年正月版では「公用人前嶋来助」九月版では「勧業方物産掛前嶋密」となっており、前島来輔は中泉奉行のころに前島密と改名したものと思われる(48)。『行き路のしるし』では改名の理由を「明治二年官令ニ遵ヒ輔ノ字ヲ避クルカ為メニ来輔ヲ止メ単ニ密ヲ以テ通称トナシタリ」と述べている(49)
中泉(現静岡県磐田市)は、徳川家康が陣屋を設けた要地であり、その奉行は「天龍川ニ沿テ海岸ヨリ信濃境ニ至ルマテ八万石許ノ土地人民ヲ支配」(50)するもので本来民政を行う役職である。しかしこの時は幕府崩壊後無禄となっても徳川家を慕い江戸から移住してくる旧幕臣たちを統括する役職となっていた。移住者は七百戸余りであるが、当時中泉に武家の住居は数軒あるに過ぎなかった。来輔は地域の有力者を招いて「是より此処に移住すべき士族は実に赤誠ある徳川の臣僕なり。然らずんば、何ぞ朝廷の給禄を喜ばず、其旧故の名を慕ひ、無禄を以て随従することあらんや。汝等能く其真志に服し、空室を有する者は、極めて廉価を以て貸与し、之を安住せしめよ」(51)と協力を要請した。隣富豪たちには献納金を出させ、数十戸の長屋を新築し士族たちを住まわせた。また、上州から老農を招き、彼らに桑の栽培や養蚕の方法を学ばせ、機織の技術を習わせた。さらに撃剣の道場を開き、学校(52)を設け自ら教鞭もとったのである。
磐田市に伝わる奉行時代の前島の功績として中泉救院の設立がある。同院は、明治元年の水害で被害にあった人々を救済するために来輔が管内の寺院に協力を求め設置させた施設である。中泉村泉蔵寺を仮の救院とし、運営も経費も寺院の手で行われた。その後、来輔は「普済院規則」を制定している。それに従い、地元の有力者青山宙平らが生活困窮者や身心に障害を持つ者の救済に尽力し、明治20年頃まで存続した(53)
前島が「郵便創業談」において郵便創業の種子として「静岡藩に向つて東海道水陸連絡運送法を建議した事もあります」(54)と述べているとおり、静岡藩時代に作成した「東海道中舟路之概略」(55)では、今切から浜松までの運河開設の経費を算出している。関口泰「前島密男の東海道交通計画書」(56)によると、これは遠州灘の荒海を避け、東海道の河川を結ぶ運河を掘削して新たな水運路を開く計画書で、工事に掛かる経費の積算がなされており「鉄道憶測」の参考資料となったのではないかと考えられる(57)。(「静岡時代の前島密」についての詳細は、上越市立歴史博物館主任[学芸員]荒川将氏の本誌論考を参照いただきたい。)
前島密が渋沢と出会ったのは、渋沢栄一によると、前島が中泉奉行、渋沢が相良奉行の時であった。渋沢が静岡で商事・金融会社「商法会所」を始めた時期である。前島は自ら渋沢の商法会所へ出向いて商会の計画を聞き、その後、静岡藩をどのように運営すべきか、さらにはこれからの日本について語り合ったという(58)
太政官により府藩県の民生関連の奉行職が廃止され、開業方物産掛(藩内の殖産担当)となっていた前島密は、郷純造(59)の推薦により明治政府から徴召された。密は自ら馬を牽き、四名の書生を伴って久能山に登り東照宮を拝したのち、明治2年12月26日(1870.1.27)東京小川町静岡藩邸家老長屋に到着、同月28日(1870.1.29)民部省に出頭し同省九等出仕改正局勤務を命じられた。


(46)「明治二年一月一三日 静岡藩、初めて領内一一ケ所に奉行添奉行を置く」とあり、遠州中泉は添奉行、役金は450両で公用人と同額(前掲『静岡県史料一 県治紀事本末一』)。
(47)「駿藩役名便覧」(明治二年正月版)、「静岡館員」(明治二年九月版)
(48)磐田市の有形文化財「軍兵衛稲荷大幟」には「明治二年源密」と記されている。軍兵衛稲荷は中泉奉行所(旧陣屋)の敷地内にあったため、中泉奉行となった密が揮毫したものと思われる(「いわた文化財だより」第79号(磐田市教育委員会文化財課、2011年10月)3頁)。
(49)橋本輝夫監修『行き路のしるし』(日本郵趣出版、1986)15頁
(50)同上17頁
(51)「自叙伝」『鴻爪痕』68頁
(52)見付学校の基礎となる(「旧見付学校だより」vol. 88(2018)。
(53)「発見!いわた「磐田の著名人」青山宙平」磐田市立図書館ホームページ(https://www.lib-iwatashizuoka.jp/person/1413/)(最終閲覧日:2019年12月29日)
(54)「郵便創業談」『鴻爪痕』514頁。明治2(1869)年から浜松奉行井上八郎らによって進められた堀留運河建設と何らかの関係があるものと考えられる。
(55)「東海道中舟路之概略」静岡県中央図書館蔵
(56)東京大学史料編纂所における「静岡県立中央図書館所蔵幕末維新期史料調査・撮影」には「東海道中舟路之概略一綴表紙に「前島密君書草」とあり。また、朱書にて「前島氏自筆、上書六字ハ先生ノ筆カ、明治二年前島氏中泉奉行タリシ頃ノ計画カ、新村出記」の注記あり。これを紹介した関口泰(隆正の孫)「前島密男の東海道交通計画書」(書名不明、一九三八年頃)を添付」とある(『東京大学史料編纂所報』第28号(1993))。
(57)上越市立総合博物館では企画展「生誕180年記念 前島密―越後から昇った文明開化の明星―」(2015年9月26日~11月23日)において、静岡藩時代の前島密の業績を詳細に紹介した(荒川将「上越市立総合博物館企画展「生誕180年記念 前島密―越後から昇った文明開化の明星―」」『郵政博物館研究紀要』第7号(2016年3月)125~130頁)。
(58)「追懐録」『鴻爪痕』614頁
(59)郷純造(1825~1910):美濃出身で幕臣となる。明治政府出仕後大蔵少丞となり、前島密、渋沢栄一を大隈重信に推薦。郷誠之助の父(郷男爵記念会編『男爵郷誠之助君伝』(郷男爵記念会、1943)1~53頁)。

前島記念館

前島記念館

【3】前島密の思想的背景

(1) 思想の源流

「日本文明の一大恩人」と評された前島密の思想の源流は、このように幼少時の房五郎時代まで遡る。早くに父を亡くし、母一人子一人で育った密にとって、最も大切なものは「生母てい」の存在であったに違いない。自叙伝の中には、さまざまな生母からの言葉が残されており、母との絆、故郷との絆が彼の心の大きな支えとなり、戒めとなっていただろう。また、糸魚川において竹島穀山らから指導された学問や作詩吟詠、高田での倉石侗窩の私塾で受けた儒学の教育は、幼少時の貴重な情操教育となった。母の言葉を含め、これらは日本人固有の倫理観、道徳心という基本的な精神を前島密に与えたといえよう。

(2) 安積艮斎から学ぶ

安積国造神社の宮司安藤智重氏によって、前島密が倉石侗窩の師である安積艮斎の門下生となっていることが明らかにされた(60)。同氏によると、前島が艮斎の私塾「見山楼」に入ったのは安政2年5月(1855.6)(61)であり、同時期に岩崎弥太郎が艮斎の塾で学んでいたという。前島と関係の深い栗本鋤雲、中村正直、福地源一郎、箕作麟祥もまた艮斎の門下生であった。安積艮斎の思想は朱子学を主としたが、艮斎の師の佐藤一斎同様、陽明学の思考を積極的に取り入れ、学派に拘らない自由な学風を貫いたという。洋学にも造詣が深く、嘉永元(1848)年には『洋外紀略』を著し、世界史を啓蒙、海外貿易の要を説いた。嘉永5(1852)年には徳川家慶に進講、嘉永6(1853)年ペリー来航の際、アメリカからの国書の翻訳を行い、プチャーチン持参のロシア国書の返書起草にも携わっている(62)
安積艮斎は実学的で多様な価値観、進取の気風を持った学者であり、和漢洋の知識を偏見なく自在に使いこなす前島の能力には艮斎の影響が感じられる。


(60)安藤智重「安積艮斎と前島密 その知られざる師弟関係」『通信文化』6号(公益財団法人通信文化協会、2012年9月)12~15頁
(61)「安政二年五月十八日 上野房五郎 南槙町御番医師 長尾善庵老塾 越後高田在」(『安積艮斎門人帳』安積艮斎記念館所蔵)
(62)村山𠮷廣監修・安藤智重訳注『洋外紀略 安積艮斎』(明徳出版社、2017)346~347頁

(3) 西洋から学ぶ

前島密が最初に西洋を意識したのは医学からであろう。藩医である叔父の相沢文仲は紀州の華岡青洲から蘭式外科を学んだ大医(63)であり、彼が江戸を目指したのも最新の和蘭医学を学ぶためであった。
前島が直接西洋の知識を得ることができるようになったのは、桜任蔵からの筆耕の仕事によってであった。ペリー来航時に「翻訳物の筆耕に依て西洋の事情を少しく知りしより、彼の操兵の実式、軍艦の型容、尚出来得べくんば彼等士卒の容貌をも実見せんことを冀望せし」(64)とあり、翻訳書の筆耕等で得た知識を実際に見て確認したかったのだろう。
また、箱館においてはボウディッチの航海書(65)で航海学を学んでいる。神戸で伊藤博文から預かった長谷川為治にはコーネルの地理書(66)で世界の地理を教えているが、この地理書も読んで理解していたのであろう。
しかし、前島密にとって最も影響が大きかったのは文久初年に手に入れたアメリカの歴史書『連邦志略』(67)である。同書にはアメリカ合衆国の独立宣言、歴史、地理、政治、文化、行政、教育等が具体的に書かれていた。独立宣言には自由・平等などの基本的人権、人民の革命権などが掲げられている。また、正確な世界地図、産業革命後の近代国家の姿がわかるさまざまな図も掲載されている。郵便制度についても政府駅逓院の業務として認識することになった。同書の内容は郵便制度の立案だけでなく、前島密の思想全体に大きな影響を与えたとみられる。
井上勝也によると、新島襄は文久3(1863)年、20歳の時にこの本を読んだという。幕府もこの書物に注目して、箕作阮甫が訓点を加えて元治元(1864)年江戸で出版し、佐久間象山、吉田松陰、横井小楠、橋本左内など、多くの憂国の志士に読まれ、大きな影響を与えたという(68)
新島襄は「私はこの書を何度も読み、脳髄が頭からとろけ出る程驚いた(I read it many times and I was wondered so much as my brain would melted out from my head)」(69)という。その理由として「彼が一番驚いたのは、国家の指導者(大統領)が人民の選挙で選ばれるということである。独立宣言文には人間の基本的人権が謳い上げられ、人間の生まれながらの平等、生命、自由、幸福の追求の権利を保障するために政府がつくられ、これらの目的を破壊するような政府を改廃(alter or abolish)することができるという革命権が主張されている」(70)と述べている。
新島はここから当時禁教であったキリスト教に関心を抱き、漢訳聖書に接することになるが、民主主義の本質にキリスト教があると理解したのであろう。ちなみに、新島は前島と同じく軍艦教授所に入学しており観光丸で学んだ経歴を持つ(71)


(63)梶谷光弘「華岡青洲(3 代随賢)末裔(本家)所蔵の国別門人録について(1)」『日本医史学雑誌』(59)巻3号(日本医史学会、2013)435頁
(64)「自叙伝」『鴻爪痕』16頁
(65)これは中浜万次郎が翻訳したNathaniel Bowditchの『亜美理加合衆国航海学書』(American Practical Navigator)と思われる。万次郎は房五郎が学んだ軍艦教授所の教授を務めており、その時代に同書を提出している(飯田嘉郎「船乗り万次郎」『航海』44巻(社団法人日本航海学会、1974)43~48頁)。
(66)19世紀後半のアメリカで広く用いられていたシリーズ教科書で発行年の1860年から1862年5月までの間に日本にもたらされ、蕃所調所で使用された(齋藤元子「コーネルの地理書の幕末・明治初期の日本への影響」『お茶の水地理』49巻(お茶の水地理学会、2009)27~48頁)。前島は1866年開成所(元蕃所調所)翻訳方であるので、ここで読んだ可能性がある。
(67)「文久の初年に、測量及び運用方として函館丸に乗船して長崎に参り、新舶来の漢訳聯邦志略を手に入れて一読した」とあるが、箱館丸での航海は万延元(1861)年であり、同書の発行は1862年であるので若干の記憶違いがあるが、日本人としては最も早い時期にこの本を手に入れている(「郵便創業談」『鴻爪痕』514頁)
(68)井上勝也「新島七五三太は何故国禁を犯して密航を企てたのか」『新島研究』106号(同志社大学同志社社史資料センター、2015)48頁
(69)Hardy, Arthur Sherburne, Life and Letters of Joseph Hardy Neesima(Boston and New York: Houghton, Mifflin and Company, The Riverside Press, Cambridge, 1891)3-4.(https://archive.org/details/lifelettersofjos00hardiala/page/)(最終閲覧日: 2019年12月31日)
(70)前掲、井上勝也「新島七五三太は何故国禁を犯して密航を企てたのか」48頁
(71)同上46頁

この記事は次の記事が続編となっています。
「日本文明の一大恩人」前島密の思想的背景と文明開化(後)


井上卓朗さん近景文:井上 卓朗(いのうえ・たくろう)
郵便史研究会理事・学芸員(郵便史)。1978年郵政省へ入省、1983年逓信総合博物館に異動し、郵政三事業、電気通信事業に関する学芸業務に従事。2012年主席資料研究員、2016年郵政博物館館長などを歴任した。在職中は「ボストン美術館所蔵ローダー・コレクション展」などの企画を担当した。

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