論文 幕末・明治初期における公用通信制度(1)

井上 卓朗(いのうえ・たくろう)
「月刊 たんぶるぽすと」Vol.45-2021

(*著者・株式会社鳴美・資料所蔵館の厚意により転載の許諾をいただきました。メイン写真は千葉県のイメージ。サイト管理人)

1 はじめに

日本における近代郵便制度は、主に近世および明治初期の公用通信インフラを基礎として郵便ネットワークを形成していった(1)。公用通信インフラの代表例は、幕府による駅制(宿駅制度)である。創業時の新式郵便は、駅逓司の管轄となった旧幕府の五街道およびその脇街道の駅制を活用して全国に実施された。そのため創業当初の郵便業務は、そのほとんどが宿駅業務の一環として行われたのである。

このような公用書状送達は必要不可欠のものであるが、旧幕府の公用通信インフラで立ち上げた創業期の新式郵便では、主要街道の範囲から外れた地域の公用書状の送達を、決められた期限内に行なうことはできなかった。これら公用書状の送達は、大名や旗本などの領主が領内の村落との連絡を行う公用通信インフラの範疇に入った、いわばローカル公用通信インフラである。そのため、各府藩県においては、近世の村継と同様な管内公用通信網を自前で構築せざるを得なかったのである。

本稿においては、近世村社会における廻状のシステムから、府藩県専用の公用通信制度を経て、最終的に郵便制度に包含されていく地域の公用通信について考察する。なお、旧暦が使われていた時代の日付は、そのまま旧暦のまま表示している。

2 江戸時代の地域エリアの公用通信

(1)旗本の通信−上総国山辺郡小山村の廻状

まず上総国山辺郡小山村の例である。近世村落において、公用通信業務を担当したのが定使(定遣、小遣、小使、歩を含む)である。特に御状持という担当を置いたところもあった。村社会において、通信は名主(庄屋・肝煎)、組頭(年寄)、百姓代という村政を担う村方三役(地方三役)に付属するもので、その経費は飛脚費用を含めて村入用から支払われた。村継で送られるものは「触状」や「廻状」と呼ばれる公用書状で、廻状は「廻文」、「触状」とも呼ばれる。それらは公的に必要な用務を伝えるものであり、名前のとおり順番により回し読みされ、返却された。最後に受け取るものを留といい、村の場合には「留村」といった。書状の内容を筆記したものを「御用留」という。

旗本など知行地を持つ幕府家臣も、その領地との通信が必要である。千葉市緑区小山町には、かつて旗本建部氏支配の領地があった。千葉市立郷土博物館の市史協力員が、残った町有文書を読み解いて、旗本建部氏の支配領地を廻る廻状ルートを明らかにした。上総国山辺郡小山村は、江戸時代中期から幕末まで旗本建部氏一給支配の家数11軒の小村であった。村は旗本の知行所村連合、組合村のさまざまな村連合、訴訟などでの村連合のグループに属していた(2)。

図1に知行所村を廻った廻状を示す。この廻状は旗本建部氏の殿様死去と跡目相続に関する廻状で、下げ札には各村が受け取った日付、承知した旨や悔やみの言葉とともに押印がある。建部氏の知行所のうち上総国にある7ヵ村を順番に廻っている状況がよくわかる。6月3日(年不詳)に作られた書状は、江戸から飛脚を使って上総に届き、図2に示すように、上小野田から岩撫、外部田、山田、小山、丹尾、五井へと廻された。6月9日の上小野田から15日の五井まで、各村で1日ずつを要している。飛脚に払われた廻状の賃銭は1里につき88文であり、廻状が廻った知行所村7ヵ村で割り、飛脚に支払っている。

(2)下総国印旛郡平塚村の廻状

旗本建部氏の廻状は殿様死去跡目相続に関するものであったが、このような方法で送受された廻状は、そのほかにどのような内容のものが存在していたのであろうか。その点について、天保12年の下総国印旛郡平塚村(現千葉県白井市)の御用留から見てみよう。この御用留は『白井町史史料集Ⅱ』に収録されている(3)。

江戸時代、白井市域は下総国印旛郡に属し、江戸幕府直轄の天領や旗本の領地が多く、「鮮魚道」と呼ばれた木下道、松戸道が通っていた。銚子で水揚げされた新鮮な魚など海産物が利根川の木下河岸で陸揚げされた。そこから白井宿を経由して行徳に向かうのが木下道(行徳道)、手賀沼に入り平塚や富塚などを経て松戸に向かう道が松戸道である(4)。

また、幕府の野馬の放牧場である牧の地でもあり、現在も野馬土手が一部残っている。平塚村は高岡藩井上筑後守領分、旗本井上伊織知行所、代官支配所の支配を受けていた。天保9年当時、平塚村の家数と人口は、筑後守領分63軒394人、伊織知行所18軒112人であった。当時としては、複数の者から重層的に支配を受ける一般的な相給村とであり、我孫子宿と白井宿の助郷も勤めていた(5)。

表1は、平塚村の御用留の内容を整理したものである。御用留には、天保12年1月から8月までの間に廻ってきた各廻状の内容が書き留められている。総件数は69件、月平均9件弱である。

―――

(1)井上卓朗「日本における近代郵便の成立過程−公用通信インフラによる郵便ネットワークの形成」『郵政資料館研究紀要』(日本郵便株式会社郵政資料館)、第2号、平成13年、18-54頁。
(2)上総国の知行所村連合、組合村、村連合は次のとおり(千葉市立郷土博物館の公開情報「小山町有文書にみる村のネットワークと廻状」から)。①知行所村連合は、丹尾(上総国山辺郡)、上小野田、岩撫(以上、上総国埴生郡)、五井(上総国長柄郡)、山田、外部田(以上、上総同市原郡)の上総7ヵ村と下総国香取郡金江津村、近江国蒲生郡西老蘇村合わせて9ヵ村。②組合村は、改革組合村土気町寄場組合(26ヵ村、小組合5ヵ村、大組合寄場・親村17ヵ村)、五郷組合・應匠宿助郷・賄方(14ヵ村)、土気町助郷組合(14ヵ村)、寛政7年(1795)鹿狩触書(18ヵ村)、嘉永2年(1849)鹿狩(62ヵ村)。③訴訟などでの村連合は、慶応3年(1867)鹿子野開発計(9ヵ村)、鷹匠宿負担割合出入(15ヵ村)、大椎相手弥三郎山境争論(12ヵ村)、土気町組合人馬助郷出入(15ヵ村)。
(3)白井町史編さん委員会編「平塚村当丑御用留天保12年」『白井町史史料集Ⅱ』白井町、昭和61年、517-539頁
(4)田辺卓躬『下総郵便事始』崙書房、昭和55年、79-97頁。千葉県教育庁文化課編『千葉県歴史の道調査報告書6』(木下街道・なま道)、昭和63年、9-18頁。
(5)白井町、前掲書、3-4頁。

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