乗合馬車と鉄道馬車
日本鉄道の駅として水沢駅(東北本線)が開業したのが明治23年11月1日のこと。ちょうど一関盛岡間が開通したときにあたります。岩谷堂(江刺)が鉄道開通を拒否したこともあり、この地域の人が便利な鉄道を利用するためには、水沢まで出る必要がありました。そのため、明治30年代から乗合馬車・鉄道馬車などの開業が相次いだのです。ここで取り上げるのは旅客のための事業であり、郵便史とは直接の関係はありませんが、当時の岩手県における交通への理解を深めるために、紹介しておきます。
江刺郡岩谷堂町の開通舎(氏家佐七、大和田喜三郎、岩崎幸作)
岩屋堂町の氏家佐七、大和田喜三郎、岩崎幸作が明治36年1月にそれぞれ300円ずつ出資してできたのが開通舎でした。馬車台3両・馬具3具・馬7頭・建物備品などを購入し、当初は江刺郡のみでの営業、桜木橋が完成してからは水沢まで伸びました。明治41年には水沢岩谷堂間を6往復、岩谷堂米里間を1往復し、料金は水沢岩谷堂間が18銭、岩谷堂米里間が25銭でした。また、冬期は運行できないことから馬橇(うまぞり)の試験運行をして、大変好評でしたが、認可されたのかは不明です。その後、明治41年10月に廃業届を提出しています。
ここでは、開通舎関係の資料と明治終わり頃の時刻表などの資料を紹介します。
江刺郡米里村の開盛舎(佐賀良平)
明治39年か40年に、米里村の佐賀良平が経営する開盛舎が米里岩谷堂間の乗合馬車の運行を開始しました。馬車の保有台数は2台でしたが、明治44年に廃業しています。
胆江軌道株式会社の鉄道馬車の様子
胆江軌道は、岩手県の東北本線水沢駅から繁華街を通り、東北本線と平面交差し、江刺市街地で3本ほどの短い支線に別れて延びていた馬車軌道です。岩谷堂と水沢の有志が岩谷堂水沢間の軌道敷設の特許を申請し、認められたため、大正元年10月に胆江軌道株式会社を設立しました。木橋の桜木橋へのレール敷設、日本鉄道の東北線との交差などを困難がありましたが、大正3年2月に工事施行が認可されました。規定の広さまで道を広げるための用地買収がうまくいかず、予定よりも遅い大正5年7月8日に開通しました。料金は岩谷堂水沢間が15銭でした。しかし会社経営は苦しく、最終的に昭和3年3月10日に廃止することを余儀なくされました。大正8年7月には水沢岩谷堂間に乗合自動車の運行も始まったのも痛かったようです。当時の軌道はすべて舗装道路などに埋まり、その名残を見つけることはできません。
(荻田栄治さんのご厚意により収集された写真類をレトロ郵便局に掲載させていただきました)
資料提供:荻田 栄治(おぎた・えいじ)
交通史研究者・郵趣家。1941年に岩手県江刺郡岩谷堂町(現 奥州市)に生まれる。日本郵趣協会県南支部(岩手県)結成に尽力し、支部長に就任。2004年から10年にわたり江刺市行政区長(岩谷堂3区)を務めた。主な著作に1980年『江刺の郵便誌』が処女作。近著に2018年『北上川に架かる橋』がある。