音声を郵便で送る「声の郵便」

音声を郵便で送る「声の郵便」

井上卓朗 「郵政博物館資料紹介 (21) 音声を郵便で送る「声の郵便」」郵便史研究会第41号(2016年3月)

*井上卓朗氏が過去に発表した論文を原著者のご厚意、千葉県市川市の郵政博物館資料センター(令和5年度承認番号第10号)、株式会社通信文化新報ならびに『写真集 村の郵便局の100年―特定郵便局のあゆみ』(新葉社、1993年)ご関係者様の許諾を得て転載しております。本記事の図版の転載はお控えください。

声の郵便とは

昭和27年に音声を郵便で送る「声の郵便」が生まれた。お年玉くじ付年賀はがき、小包はがきなどの発案者として知られる林正治(まさじ)氏の考案によるもので、郵便局の窓口等の録音室でレコードに声を録音し、郵便で送る録音郵便である。
終戦後も外地に残留している未帰還者の帰りを待つ家族の声がシベリア抑留者や外地残留者に、この声の郵便が送られ、非常な感激をもたらしたという。
声の郵便は第5種郵便(100gごとに8円)として取り扱われ、昭和27年から28年にかけて郵政本省、地方郵政局と全国の58の郵便局で実施された。録音にかかる料金は80円から100円ほどで、当初は無料の録音サービスを行っている。
「声の郵便」の表記は、郵政省では「声のゆうびん」と郵便をひらがなで表記しているが、新聞等一般のマスコミは大半が「声の郵便」と漢字で表記している。本稿では郵政関連の引用以外は声の郵便と表記する。

「声の郵便」誕生秘話

林正治氏が声の郵便を考えた動機などは『郵便友の会ニュース』(27.4.1)の京都PFC(ペンフレンドクラブ)メンバーによる同氏へのインタビュー「声の郵便 元祖林先生を訪ねて」に掲載されている。林氏の答えは「私は郵便が大好きなので、親しみながら研究しているのですよ。郵便はもっとも簡単に、人の気持ちを相手に伝えることができるものだから、できるだけ効果的なものをと思って考え出したわけです。私は、私と同じように郵便を愛してくれる人が好きですね」であった。
林氏は昭和25年の6月ごろから録音郵便の研究を開始したと述べているが、同氏の考案したくじ付き年賀はがきが無事発売され配達が完了されたのちに、この研究に取り掛かったのであろう。同氏の開発していた録音レコードはビニール製で、蓄音機を持っていない人のために簡易な蓄音機、レコード針も考えていたようである。
林氏の思いは、単に「郵便が大好き」といったものだけではなく、戦争とその敗戦という結果が大きくかかわっていたような気がする。

林氏の活動

林氏は、郵便局でのサービス開始以前より独自に「声の郵便」の活動を開始していた。昭和27年1月13日、京都中央郵便局で未帰還者の家族の声を録音しシベリア抑留者へ送った。その一か月余り後には礼状が届いたという[1]。同年3月25日には、山口県防府市が市制施行十五周年を迎え、同県出身の佐藤栄作郵政大臣兼電気通信大臣が声の郵便で祝辞を送っている[2]。
同年7月5日には、広島郵便局で抑留者等への声の慰問文として留守家族の録音会を行っているが、通信文化新報(27.9.20)には次のような記事が掲載されている。
「去る七月五日広島郵便局で郵政審議会委員林正治氏の好意により、異国に残る母、夫、息子の安否を気づかい涙で吹き込んだ声の郵便がつつがなく届いて嬉し涙で聞いたとこのほど相ついでニ家族から感謝の知らせが同局にもたらされ、近く全国郵政局で始められる声の郵便に大きな期待がかけられている。
広島県祇園町に孤独の身で暮らしている溝尾ムメさん(73)が送った息子(44)=満州東北松江省蘭西県鉱務局に現在勤務中=は偶然にも録音の当日、取材中の同氏と竹馬の友共同通信社編集主任片島薫氏にあて大要つぎのような返事があった。
『レコードは七月三十一日届きました、お母さんの涙声がとぎれたと思うとはからずも片島さんの落ちついた声が聞こえまったく夢のようで涙が出ました、わたしは設計技師として働かされています、一般の中国人はわたしたちに好意を持っているがやっぱり捕虜だと言えましょう、戦後大連からハルピンに連行され五年八か月、今では十九際を頭に四人の子がある、中共と日本との講和が結ばれたら帰れるでしょうからお母さんその日を楽しみに‥‥』また片山氏には『母を頼みます』と書き添えてあった。」
広島市舟入幸町上杉襄一君(21)と妹一江さん(15)が中共遼東省の病院で寂しく療養中の実母に送った返事『七月廿九日夕方受取り病院の人々とどんな声がでるかと胸をとどろかせ待ちました、一江ちゃんの吹き込んだ〝野バラ〟と〝月の砂漠〟の歌はたいへん上手でした、わたしは今胸を患っていますがバス(薬名)も一回分が米6.5㌔と(約四升五合)と交換ですからとても手に入りません、最後に二人が〝一日も早く帰ってください、さようなら、さようなら〟の別れの言葉に一同はどっと涙を流しました』
9月にも同じく防府市で留守家族の録音会を行っている。通信文化新報(27.9.13)はその状況が写真入りで次のように紹介している。
「終戦後七年、今なお異国の丘にわが身の不遇をなげく戦犯者と抑留者にその留守家族の肉声を伝える目的で郵政審議会専門委員林正治氏の無料奉仕と山口県世話課および防府市の協力とによって留守家族の声の録音が九月六日防府郵便局で行われた。録音した家族は十三世帯二十一人でその中には二、三十里も距った岩国市、萩市方面からはせつけてきた家族もあり、これら遠来の家族にたいしては県世話課の特別のはからいで旅費の実費が支給された。またアマチュア画家英宰相ウインストンチャーチルの優雅な高風を慕って日本に結成された絵画研究団体チャーチル会は目下、東京、名古屋、京都、福岡、防府市の五か所(仙台および札幌市のは解消した)にあるが前記林委員は京都チャーチル会の幹事長をも兼職しているので防府チャーチル会員中には絵画趣味の取りもつ縁で林委員と面識のあるもの十指にあまるほどあり、防府郵便局長も同会のメンバーである関係上防府チャーチル会全員が今回の留守家族の声の録音に欣然協力、防府市内の風景スケッチなど録音中の留守家族の似顔絵を作成し、これを提供、また防府市広報課写真班も録音家族の家庭を回りその家族全員の写真を撮影し提供したので録音盤に絵画、写真を同封して、それぞれ海外抑留者戦犯者へ郵送した。なお留守家族の録音以外に防府郵便友の会の男女代表者各一名宛および元公爵毛利元道氏から比島抑留者への慰問の言葉、元防府市会副議長柳義雄氏から佐藤郵政大臣への残暑見舞の言葉などかずかずの録音があったが、今回の録音にあたり富田局長、大島局長はそれぞれ私有の録音器を携行、支援したので県市および留守家族から感謝された。」
[1]郵便友の会ニュース(27.4.1)、[2]通信文化新報(27.3.26)

写真㊤は泣き泣き吹き込む録音風景、㊦は録音盤と家族スケッチの数々:通信文化新報(27.9.13)

「声の郵便」サービスの開始

郵便局での「声の郵便」サービスはいつから行われたのだろうか。
昭和27年の東京中郵ニュース(1952.10.1)には「昭和27年4月に東京中央郵便局の局舎内を開放して〝新しい郵便展〟を催した時に録音機がお目見えし希望者に吹き込みをした。広島、岡山の郵便局ではすでに試験を重ねて中共(中華人民共和国)や比島(フィリピン)などに未だ残留している抑留者の留守家族を呼び、無料で故国の肉親の声を吹き込み現地へ送って抑留者慰安の一役をかった」として、郵便展が催されたときの写真が掲載されている。
11月号では「10月21日から郵政弘済会が郵政省の委託を受け、局内の仮の施設で吹き込みを開始した」と伝えている。また、録音器も備えつけてあり、吹き込むとすぐに再生して本人に聞かせている。
そして、昭和27年12月13日付の東京朝日新聞は「筆不精にはありがたい声の郵便が十五日から全国の主要郵便局百五十八局で開業される」と伝えている。つまり、昭和27年12月15日が正式な声の郵便の郵便局でのサービス開始ということになる。
また、同紙は「郵政省が今年八月から東京の中央、京橋、浅草郵便局などで試験的に公開してきたが、これを郵政弘済会がうけつぎ、全国で代行しようというもの。郵便局に録音室を作り、録音器を備えつけ吹込料はレコードとも郵送用袋付80円。便りのほか会社、官庁の命令伝達、遺言や若いころの記念にぜひどうぞ」と宣伝している。第五種郵便扱いで送料は8円、レコードは6センチ、両面使えてタップリ3分、ボール紙にアセテート塗り、ビニール製、ベニヤ板製など3種があり、燃えず、割れず、再生はどんな蓄音機でもきこえ、最高600回は大丈夫という。来年春までには一千台配置、一部を移動させ10枚以上の注文には無料出張する由」と伝えている。

ボール紙にアセテート塗り

ベニヤ板製

ビニール製

声のゆうびんの目的と録音器等の配備状況

郵政省は声の郵便をどのように考えて実施したのであろうか。昭和27年7月3日起案の文書「声のゆうびんの宣伝について」(郵周第88号、郵管第688号)によると「最近声のゆうびんが喧伝せられるようになったが文化的な郵便事業の啓発宣伝を行うと共に新しい郵便の分野を開拓するための準備の意味も含め左記に依り録音機を購入配布し声のゆうびんの宣伝を実施することと致したい」としている。
つまり、「文化的な郵便事業の啓発宣伝」と「新しい郵便の分野を開拓するための準備」が目的であったのである。そして録音機を購入し全国に配備を行った。購入物品等文書の内容は次のとおりである。

円盤式録音機

蓄音機(レコードプレーヤー)と磁気録音機(テープレコーダー)は現在でもかろうじて知られているが、円盤式録音機なるものは一般的にはほとんど知られていないであろう。これはレコードのカッティングマシンである。
声の郵便用として購入予定だったのは電音社製円盤式録音機RC-1型である。電音の円盤式録音機は戦争終結の玉音放送を録音した機器として有名であるが、RC-1型は電音が普及型として開発され昭和24年に発売された録音機である。しかし、矢沢昇氏の写真に写っている録音機はRC-1型ではないと思われる。実物が確認できないので何とも言えないが今後の調査が必要である。

声の郵便

矢沢昇著『村の郵便局の100年―特定郵便局のあゆみ』新葉社 (1993)より

「声の郵便」サービスの運営変更

昭和28年4月から郵便局における声の郵便の録音サービスは中断する可能性があった。同年4月18日起案の「声のゆうびんの周知について」(郵周第135号、郵管第266号)によるとその理由は郵政弘済会への委託契約が3月末で切れることによるもので、本来なら28年度からは郵便局員が実施する予定だったのである。同文書の内容は次のとおりである。


「声のゆうびん」の周知について
郵管第983号(27.12.12)関連
「声のゆうびん」の利用周知については、前年度録音機、録音ボックス等を整備し、郵政弘済会に委託して全国五十八郵便局に於いて実施したが、本年度も定員差繰の関係もあり郵便局地震の実施は当分困難のため、自然中断の止むなき実情にあり、漸く効果を挙げつつある際、録音郵便周知の中断、及び整備した録音機、録音ボックス等の遊休により著しい損失を受けるから引続き当分の間、郵政弘済会に録音機及び録音ボックスを、貸与使用せしめることと致したい。
尚、契約等については、別案により伺うことと致したい。

しかし、その3か月後の7月には郵政弘済会への委託は会計法上の疑義ありとして、次の決定をした。
①録音郵便の利用勧奨については随時立看板、ポスターその他の媒体を利用し当省が周知の徹底を図る。
②郵便局に配置した機器及びボックスは「声のゆうびん」周知用としてその儘在置し公衆の利用に供する。但し、取扱い未熟者の使用は器械破損のおそれがあるから局員中執務時間に余裕のある者、又は弘済会売店(別途伺)担当者等に操作せしめる事はさしつかえない。
そして、郵政弘済会に貸与していた録音機と録音ボックスを至急引き上げ、郵便局で利用するよう郵便局と郵政弘済会に通知している。

外国あての声の郵便

外国あての声の郵便に関して、昭和28年3月1日付の東京中郵ニュースに「ゆうびんクイズ」として外国あて〝声の郵便〟が取り上げられている。

郵便クイズ 外国あて〝声の郵便〟(東京中郵ニュース(28.3.1))
 いま各地の郵便局で吹きこみをしている〝声の郵便〟の録音盤はどこへでも開封八円で送れるそうですが、外国の知人へ送る揚合の郵送料はいくらですか。
 その吹き込み内容が通信文の性格を持つ時は「書状」扱となり、琉球廿㌘またはその端数毎に十円。その他の外国へは廿㌘まで廿四円、それを超える廿㌘またはその端数ごとに十四円で送れます。(但し非航空便)
 航空便でも出せますか。
 書状扱として普通の航空料金で差し出せます。書留扱にする場合には四十八円の書留料金を加算して下さい。
 音楽や歌などを吹き込んだ場合の郵送方法はどうするのですか。また、普通のレコード盤やテープレコードはどんな扱いとなりますか。
 通信交の性質とは認められない音楽や歌などを吹き込んだ場合には、小形包装物または小包などでお出し下さい。テープレコードもその吹込内容によって同じように区別して送って下さい。音楽、演芸などを内容とする市販のレコード盤は通信文とは認められませんから小型放送物、小包または商品見本として送る必要があります。
 そのほかのちゅうい事項は?
 〝声の郵便〟録音盤をアメリカに出す場合には、窓口にある緑色の税関票符を封筒の表面に貼りつけてください。

外国あて声の郵便、吹き込んだ内容が通信文である時は書状扱いとなるが、音楽などの場合は小形包装物または小包となる。日本国内においても声の郵便は、通信を内容とする場合5種扱いであるが、音楽等の場合は小包扱いとなっている。

「声の郵便」のその後
続逓信事業史や郵政百年史などの公式な事業史や年表には、声の郵便に関する記載はほとんどない。その実態は郵便友の会ニュースや通信文化新報、東京中郵ニュースなど業界紙の記録に残るのみである。またその記事はほとんどが昭和27年から29年までである。
川崎郵趣会発行の『「声の郵便」特集』(1992)には数多くの「声の郵便」関連記事が載せられているが、その後どうなっていったのかについてはよく分からない。これは、レコード録音より高性能な磁気テープによる録音機が普及し始めたことにも関係しているのではなかろうか。
ちなみに、郵便の第5種は昭和41年7月に第1種郵便に統合されている。
面白いことに、昭和47年に玩具メーカー「トミー」から「ボイスコーダー」という子供用のレコードカッティングマシーンが発売されている。

トミー ボイスコーダー(1972)

これで録音できるボイスレコードは声の郵便によく似ている。
声を録音して郵便で送る試みは平成4年にも試みられている。平成4年2月7日に「ボイスパック郵便」が試験的に東京中央郵便局、新宿郵便局など19局で開始された。これは「ボイスパック」という音声録音装置付き便船を購入し、自分の声を吹き込み、郵便物として差し出すというもので、受取人はボイスパックのスイッチを押せば差出人の声が聞ける。録音できるのは10秒以内で、約2千回聞ける。デザインは3種類で値段は1,500円であった。
平成8年には「おしゃべりめーる」という同種のサービスも行われた。ポスターには「いつでも、どこでも、自分の声を録音して手紙が送れる。文字と一緒にあなたの声が、メッセージとして届く。それが「おしゃべりメール」です。」と説明されている。

時代は大きく変わり、携帯電話はガラケーと呼ばれ、生産中止も視野に入ってきた。現在はスマホのアプリが使えないと老後が心配なる時代となっている。声を郵便で送るという試みは今後復活しそうもないが、終戦後、声の郵便というものが生まれ、シベリア抑留者や外地に取り残された人々に故郷の親族や家族の声をレコードに録音して届けたということは、改めて記憶に残していく必要があるのではないだろうか。

井上卓朗さん近景文:井上 卓朗(いのうえ・たくろう)
郵便史研究会理事・学芸員(郵便史)。1978年郵政省へ入省、1983年逓信総合博物館に異動し、郵政三事業、電気通信事業に関する学芸業務に従事。2012年主席資料研究員、2016年郵政博物館館長などを歴任した。在職中は「ボストン美術館所蔵ローダー・コレクション展」などの企画を担当した。

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