「日本文明の一大恩人」前島密の思想的背景と文明開化(後)

「日本文明の一大恩人」前島密の思想的背景と文明開化(後)

井上卓朗
郵政博物館 研究紀要 第11号(2020年3月)

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「日本文明の一大恩人」前島密の思想的背景と文明開化(前)

【4】前島密の思想

(1) 自由な思考から生まれた思想

前島密は生誕から幕臣となるまでの青春期には特定の藩に属さず、自由な立場にあり、封建的なしがらみが少なかった(72)。しかし、それは拠るべき組織がないアウトサイダー的な立場であり、通常はマイナスの要因として働く。しかし、10歳で就学の道を選び、独り立ちした前島密は、旅をして苦難を乗り越えていく過程で和漢洋の多種多様な学問を学んでいったのだ。
組織の庇護なくして「志」を全うした前島密の精神的強さと強固な意志は、唯一信頼できる故郷の母の言葉、母との絆によって生まれたのであろう。
母を思う心は、純粋に人間的で普遍的な感情である。
この学びの過程の中で、生い立ちの社会的環境を乗り越え、前島密は独立した自己を形成していった。上記で述べたさまざまな経験やそこで得た和漢洋の知識によって、個としての自由な精神を確立した前島密は、客観的な視点と冷静な判断力を手に入れ、それによって自在に思考することが可能となり、その思考から何物にも左右されない独自の思想、独自の発想、大きな構想力(73)が生まれたのである。
そのため、その時代の常識や社会の概念にとらわれることなく、風雲急を告げる幕末期にあっても、客観的な視点で社会情勢を冷静に判断し、諫言することができた。山岡鉄舟らの幕臣仲間に余地堂(74)と呼ばれた所以である。
「余地堂」とは、山岡鉄舟が前島密に付けた号であり、書にして贈ったものであるが、前島によると「維新の初めには、ともすれば人々客気に逸って深く思慮せず、物を速断し、軽率に行動する事が頻繁で、ややもすれば事をあやまる事が多かった。そこで自分はひどくこれをうれいて、事に当っては余地を以って考えなければならぬと自らも之を体し、知人にも大事に臨んでは余地を持て、余地を持てと、口癖のように言うていた所から、或時、山岡(鉄舟)がやってきた時、何か一つ書いてくれと頼むと、貴君は常に余地を言うから、「餘地堂」と云う号は貴君の堂号として恰当であると言うて書いた」という。これは、『鴻爪痕』「逸事録」の中にある一節であるが、鉄舟の書には「明治の初年関東の志気頗切迫、ややもすれば暴発せんと、余之に対しつねに告諭するに、餘地を存せよの語を用てせしかは、彼等は余を罵りて餘地堂の号を附す」と前島自身によって追記されている。その当時の友人らとの経緯はともかくとして、その後の歴史を知る我々にとってみれば、前島密にとって「余地堂」という号は実に相応しいと言わざるを得ない。


(72)田原啓祐は、前島密を「限界的階層者(マージナル・マン)」として現状に対する不満と政治家的志士としての視点を感じることができると評価している(田原啓祐「幕臣前島密がみた文明開化の礎」『郵政博物館研究紀要』第10号(2011年3月)60頁)。
(73)加来耕三は前島密を、明治維新の理想を具現化した人物であり、それは彼の構想力によって成し遂げられたと評価している(加来耕三『明治維新の理念をカタチにした 前島密の構想力』(つちや書店、2019)5~11頁)。
(74)「逸事録」『鴻爪痕』338~339頁

米のイメージ

(2) 前島密の思想

前島密の思想は、その志であり、端的に言うと「日本が国際社会において国家的独立を果たすために、近代国家としての日本という国を構築する」ということである。その中心にあるのは当然ながら日本である。この思想の根源にあるのは、日本の植民地化に対する危機であり、日本を守るためには何をなすべきかという思考から発展したもので、前島密の思想はここから生まれたのであり、前半生をかけて、理論だけではなく詳細に具体的に自分自身で実行可能なレベルまで学んできた。
前島の思想は、国際情勢を含めて独自に分析したインテリジェンスによる判断であり、海外に対する国家戦略(75)であった。その戦略は、国内を支配していたその時代の雰囲気や思想とは相容れないものであった。攘夷論者だけでなく、幕府崩壊時においては、最新の西洋事情に通じているはずの榎本武揚や大鳥圭介であっても、前島を「徳川の賊臣」とみなして殺害を試みたのである(76)
高田早苗は「開国主義を以て終始して所謂攘夷家なるものとは到底反りが合はないのは無理もない次第である。故に幕末の当時に於て、薩長其他の攘夷論者とは到底同じ道を歩む事が出来なかつたのみならず、さればと云つて極端なる佐幕党とも素より意見を異にしてゐたのである。故に翁が鹿児島藩に聘せられて教鞭を執つてゐたのに、遂に之を辞するに至つたのは攘夷論者と反りが合はなかつた為であり、叉江戸に帰つて後も屢々佐幕党の為めに危害を加へられんとしたのも極端なる佐幕論者と意見を異にした為めであると思はれる。故翁の自叙伝中にもあるが、故翁は当時頗る外国の干渉を憂へてゐた。故翁の眼にはナポレオン三世の、幕府の背後に立つて干渉の端緒を得、遂に日本を併呑せんとする隠謀が映じたが為めに、頻りに余地論を唱へて、遂に山岡鉄太郎氏より余地堂の篇額を贈られたと云ふのも、一面翁の識見の平凡でない事を示すと同時に、他面翁が到底極端論者となり得ない性格である事を證明するものである。要するに故翁は終始建設的人物であつたと同時に又建設的事業に頗る興味を持たれた人であつた。破壊と云ふ事には翁は趣味を持たざるのみならず、到底為す事が出来なかつた故に、幕末の破壊時代には毫も志を得なかつたのであつて、徳川幕府亡び、静岡藩起るに及んで、これに附帯する建設事業に関係して其立身の端緒が啓かるゝに至つたのである」(77)と分析している。
前島密が自分の思想を明確に記載した資料は少ない。前島密のスタンスはあくまで実行者であり、前島密の思想を体現するものは、啓蒙家のような著作ではなく、彼が構築したインフラその他生誕記念碑に記された彼の功績そのものである。


(75)小栗忠順との問答で、東北軍、最新海軍、仏海軍で薩長を圧倒し誅伐すると云う小栗に対し、前島はたとえ薩長に勝ったとしても外交を含めて国家的損害が大きいと述べており、国家戦略のレベルの差がはっきりと分かる(「自叙伝」『鴻爪痕』51頁)。
(76)「自叙伝」『鴻爪痕』61~64頁
(77)「追懐録」『鴻爪痕』659頁


(3) 漢字廃止論に見る前島密の思想―国家の大本は国民の教育―

幕末期における前島密の思想の一端を垣間見ることができるのは「廃漢字論」(78)である。
前島密は同論において、国家の大本は国民の教育にして、その教育は士民を諭せず国民に普からしめなければならない。この時機に乗じて国民一般の教育制度改革を審議し断行することが「至極ノ要」であると強調している。学事を簡にして普通教育を施すことは国民の知識を開導し精神を発達し道理芸術百般に於ける初歩の門にして国家富強を為す礎地となるというのである。
前島密は「普通教育」という概念を、単なる知識の獲得ではなく「事物の道理」を獲得する上で必要であり、少年期の重要な教育課題と認識していた。
武田晃二は「明治初期における「普通教育」概念」(79)において、漢字御廃止之議の意義を「第1に、「普通教育」が「国家の大本の基礎」として緊密な関係において認識されていることである。この緊密さは後発資本主義国家に見られる特質でもあった。第2に、「普通教育」概念が単なる知識の詰め込みではなく、「事物の道理」の獲得にかかわるものであり、したがって、「普通教育」は、精神発達上少年期の重要な教育課題であると認識していたことである。ここに言う「道理」を「理性」と置き換えることができるとすれば、前島にとって、「普通教育」は今日で言うところの「初等教育」よりも青年教育の部分に近い。あるいは基本的な理性獲得を目的とする教育ということもできよう。その後の普通教育概念が総じて狭義の小学校教育に対応するものとして用いていることからして、重要な認識であるといえよう。第3に、「普通教育」が「愛我尊自」「自尊独立」「学問の独立」さらには「愛国心」などと密接不可分な関係においてとらえられていることである」(80)と述べている。
前島密の「日本が国際社会において国家的独立を果たすために、近代国家としての日本という国を構築する」という思想のその根本に教育があり、彼自身が獲得した個としての独立した精神を国民全員が早い時期に確立する必要がある。それを教育によって為そうというのである。
町泉寿郎が発見した無窮会所蔵の「廃漢字献言」(81)は現存するもっとも古いものである。その正式な題名は「御国本御創立之儀奉申上候」(82)であり、日本という国の基本・基礎の創立の儀について申し上げるという趣旨で書かれている。この中には「文化」「文明」「開化」「開化文明」「文明開化」いう語彙が含まれており、教育によって文明の開化を成し遂げるという前島密の意思が感じられる。また、「西洋人には西洋魂がありそれによる愛国心がある。日本人はそれと同等の日本魂による愛国心を持ち、それによって西洋と対峙する必要がある」(83)とも考えていた。


(78)小西信八が①『漢字御廃止之議』②「国文教育之儀ニ付建議』③『興国文廃漢字議』③『興国文着手ノ順序』⑤『学制御施行ニ先タチ国字改良相成度卑見内申書」を収めて刊行したものが『東京茗渓会雑誌』194~196号(東京茗渓会、明治32(1899)年3月~5月発行)、および小冊子『前島密君国字国文改良建議書』(郵政博物館蔵)である(町泉寿郎「無窮会所蔵・前島密『廃漢字献言』の解題と翻刻」『東洋文化』99号(無窮会、2007)2頁)。
(79)武田晃二「明治初期における「普通教育」概念」『岩手大学教育学部研究年報』第50巻第1号(1990)83~103頁
(80)前掲、武田晃二「明治初期における「普通教育」概念」85~86頁
(81)前掲、町泉寿郎「無窮会所蔵・前島密『廃漢字献言』の解題と翻刻」1~14頁
(82)前島来助(徳川新三位中将内)とあり、徳川宗家を相続した徳川家達(亀之助)の内であり、徳川家公用人時代のもの(明治元年)と推察される。
(83)これは日本人が日本魂というアイデンティティを持って西洋文明を取り入れなければ、いずれ日本人の本質を失って西洋魂を持った日本人になってしまうという危機感からである。

前島密像(前島記念館)

【5】前島密の構築したインフラ

(1) 日本文明の一大恩人とする根拠

第4章第2項で「前島密の思想を体現するものは、啓蒙家のような著作ではなく、彼が構築したインフラその他生誕記念碑に記された彼の功績そのものである」と述べたが、さて、その碑文は、前島密を「日本文明の一大恩人」と定義し、その根拠となる功績を次のように列挙している。

碑文は、まず「維新前後の国務に功績が多かった」として維新前後の国家行政への功績を挙げ、その次に「明治の文運」に寄与したとして維新後の文化、文明を発展させたとしている。その後に列挙されているものは、その具体的な功績といえるであろう。
この碑文の主旨は、前島密が明治政府の行政官僚として郵便その他の事業を創設し、明治維新後の日本の文化、文明を発展させた。いわゆる文明開化を実現させた功績により「日本文明の一大恩人」と評価するということであろう。
前島密は郵便創業者としての印象が強く、行政官僚としてはあまり一般には認識されていないが、前島密の官僚等としての経歴は表2のとおりである。

前島密は、明治2年12月(1870.1.2)に民部・大蔵省に入省したのち「明治十四年の政変」で辞職を求められるまで大蔵省、内務省の官僚として勤務している。前島密の属した明治初期の民部省、大蔵省、内務省は、明治政府を代表する行政官庁であり、近代日本の骨格を築くという重要な役割を果たした。
前島密は、それら官庁の中枢を担う実務担当者として活躍し、国家の骨格を構築するだけでなく、そこに郵便という血管を張り巡らせ、情報という血液が流れるようにした(84)。ここで言う前島密の構築した郵便とは「通信・交通・金融制度=インフラ」の総称である。このインフラこそが文明開化の源泉であり、これがネットワーク化されて、維新後の文化、文明を発展させたといっても過言ではない(85)
このインフラの所管の駅逓司、駅逓寮はもともと交通・運輸の監督官庁(旧道中奉行所)であり、郵便を中心として、陸・海運の振興の整備、育成を行った。駅逓寮で誕生した郵政事業は、社会の基礎となる通信・交通・金融のネットワークを構築し、産業・経済・文化の発展を促した。
郵便局がネットワークのハブとなり、電信・電話も郵便局によって全国に広まった。


(84)アメリカ人宣教師ウィリアムズから「通信の国家に於けるは、恰も血液の人身に於ける様な者である。人身は血液の循環に依て生活もし且健全を得るのであるが、血液の循環するは血管があるからである。もし血管が塞がつた日には忽ち人身の健全を害し、其生活も遂には出来ない。之を一国に喩へて見れば、通信は即ち血液で、血管は駅逓である。此駅逓が塞がつた日には、従つて血液たる通信が一国といふ体躯中に循環する事は出来なくなる。我が聯邦の広きも、駅逓といふ機関のあるため、政治経済を初め、其他百般の事物に関して、血液たる通信の滞りなく全国に快達し、為に今日の如く能く活溌肥満なる国家が出来たのであると述べ了つて、一通の書翰袋を手箱から取出し、其表に貼つてある郵便切手を示して、是が即ち聯邦政府の定めた賃料の標章である。此標章の切手を貼つてある信書は、聯邦内は勿論、通信締約の各国内は、何れの地へも賃済である事を証明せられて、逓送配達されるのである」と教えられた(「郵便創業談」『鴻爪痕』515頁)。
(85)現在でも、第3種郵便は国民文化の普及・向上のために、新聞雑誌等の定期刊行物を割安な料金で取り扱うと定義されており、第4種郵便は教育学術や福祉向上等のために特に低料金とされている。このように国家の文化・教育・学術・福祉に貢献する目的が郵便には存在している。

(2) 文明開化のハードウェアとソフトウェア

明治維新後の文明開化は西洋型のハードウェアとソフトウェアが導入されて行われた。一般的に文明開化というと煉瓦造りの洋館や馬車、鉄道、蒸気船など西洋風の形のある目に見えるハードウェアを連想するが、前島密は近代国家としての理念や民主的な制度などのソフトウェアを重要視した。
前島密が構築した通信・交通・金融インフラのソフトウェア部分は完全に西洋型で、グローバルスタンダードであった。しかし、ハードウェアについては、西洋型ではなく、旧来の駅伝による宿駅制度を改良したものであった。また、郵便局(郵便取扱所)も宿駅の伝馬所を利用したものであった。
郵便は差出人から受取人に郵便物を届ける制度である。郵便物を取集し、それを方面別に区分して輸送し、配達する。そのためには、交通(物流)システムとそれをつなぐハブとなる拠点が必要となる。前島密が郵便制度を立案したのは明治3(1870)年であり、廃藩置県の実施前であった。そのような状況下で、欧米のような鉄道や郵便馬車、蒸気船など西洋型のハードウェアを短期間に導入することは不可能であった。
そのため、江戸時代の既存の駅制(諸街道の駅伝インフラ)を最新のソフトウェアで運用することを考えたのである。

夕陽の渚のイメージ

(3) 駅制改革によるハードウェア構築

郵便制度のインフラとなった駅制は、江戸時代においては助郷農民にとっても農間の現金収入となり、それなりに機能していた。しかし幕末にはさまざまな弊害が現れ、明治政府も緊急課題として対応を迫られていた。
前島密が行った駅制改革は、宿駅伝馬所(江戸時代の問屋)を民営化(会社化)し、人馬賃銭を利益込みの定価(相対賃銭)とすることであった。政府等公用の無料通行や御定賃銭を廃止し、陸運会社となった宿駅の人馬を利用するときは官も民も誰もが同一条件、同一料金とすることにした。改正掛で懸案となっていた助郷制度は、伝馬所が民営化されたことでその存在理由を失い廃止され、助郷農民は封建的な義務的役務から解放されることになった。
伝馬所は通信を担当する郵便取扱所と運送を担当する陸運会社に分離された。短期間に郵便インフラが築けた要因は、既存の宿駅と街道という旧来のインフラをそのまま利用したことにあった。街道と宿駅は全国に存在し、それらを郵便局と陸運会社に変身させることで、郵便のインフラとしたのである。
前島は江戸時代からの飛脚商のネットワークも郵便に利用することにした。前島密が駅制改革の一環として創設させた陸運元会社(86)は、従来の支店だけでなく各地の陸運会社を併合し全国の物流を担当した。彼らは郵便を運ぶだけでなく、現金や有価証券(切手等)も輸送した。郵便局を運営するために必要な現金や切手を搬送し、現金書留(金子入り書状)も取り扱い、併せて一般の荷物も配送した。
こうして前島密の構築したインフラは官営の郵便と民営の陸運会社、陸運元会社を両輪として全国にネットワークを広げた。そのため、明治5年までに九州から北海道までネットワークが広がり、明治6年には均一料金制度を導入することが可能となった。
明治8年に創設された郵便貯金、郵便為替も、郵便局をハブとする官民一体となった通信・交通ネットワークによって全国展開が可能となったのである。


(86)定飛脚問屋仲間の設立した陸走会社が母体であり内国通運という運送会社に発展し、さらに日本通運となった(井上卓朗・星名定雄『郵便の歴史-飛脚から郵政民営化までの歩みを語る-』(株式会社鳴美、2018)34~47頁)。

(4) 前島密の構築したインフラの特徴

前島密の構築した「通信・交通・金融インフラ」の概念を図式化すると次のようになる。

現状で実態として稼働可能なハードウェアを、西洋的理念に基づいたソフトウェアで運用することで、短期間で郵便制度、為替・貯金制度、運輸制度などのインフラを構築することができたのである。いや短期間に造る必要があったからこそ、日本に最も適した方法を考えたのだろう。
前島は、近代国家を建設していく順序について「国に善道あり、広く大路を修め交通運輸を便利ならしむること其上乗也、殖産興業の勧誘奨励は其次也、彼の政府自ら工業製作に従ふが如きは最下なるもの也」(87)と国家の基盤となる交通・通信・運輸が最上位の政策である。殖産興業はその次であり、政府が自ら工場を設置するなどの事業は社会基盤が整った上で最後に行う政策であると、平素から大久保、伊藤、大隈らに自説を説いていたという。
そのような前島を、大隈重信は、「一種の天才的の前島君には独特の技倆があつた。夫れは非常に経済的思想が盛んである。フオーセットの原理を見ても直に理解する、夫れを日本に応用する。尤も日本の状態は英国と違うから其儘持つて来る訳にはいかぬ、そこで応用をする。実際に之れを経営するに付て如何にすれば宜いかと云ふこと、所謂物を経営管理するの能力は前島君は余程優れて居つた。その意味は少し学問があれば直に理解する。所が理解して夫れを日本に如何に応用するかと云ふ学究的の人は少ない。所謂学理を実際に応用する、此点に前島君は優れた能力を有つて居る」(88)と高く評価している。


(86)定飛脚問屋仲間の設立した陸走会社が母体であり内国通運という運送会社に発展し、さらに日本通運となった(井上卓朗・星名定雄『郵便の歴史-飛脚から郵政民営化までの歩みを語る-』(株式会社鳴美、2018)34~47頁)。
(87)「追懐録」『鴻爪痕』686頁
(88)同上604頁

(5) 血管のようなネットワークの構築

情報という血液を国家の体中に送り届けるネットワークが郵便である。明治政府が近代国家を築き上げるのに最も必要なものが情報(インテリジェンス)であった。
明治政府は封建国家から脱却し、統一された領土を持つ中央集権国家を目指していた。そのためには新たな国の制度や政策を国家の隅々まで届けなければならない。また、その逆も必要であった。そのためには、郵便という情報網が必要であった。前島密は、江戸時代に存在した幕府や諸藩の街道・宿駅をその機能を急激に変えることなく郵便という通信ネットワークと交通ネットワークに分離して運用したのである。
その状況が、島崎藤村の『夜明け前』には「妻籠宿の問屋・本陣の青山寿平次が、郵便御用取扱人となっても、郵便物を袋に入れて、隣駅へ送ること、配達夫に渡すべきものへ正確な時間を記入すること、妻籠駅の判を押すこと、すべてこれらのことを江戸時代の宿場問屋と同じ調子でやった」(89)と書かれている。
また、世界中の国々がつながるためには、国際通信が必要であった。そのため、日本が開国した後、欧米諸国は自国の郵便制度を日本に持ち込んでいた。これは日本の主権を侵害する行為であったが、日本に近代郵便制度が確立するまでは認めざるを得なかった(90)
前島密が、通信インフラのハードウェアは旧来のものを使用しつつ短期間に全国ネットワークを築き、そのソフトウェアは郵便というグローバルスタンダードな制度(91)を採用した目的の一つは、国際的な通信ネットワークに接続させるためであった。


(89)島崎藤村『夜明け前』第二部(上)新潮文庫(1980)296頁
(90)井上卓朗『前島密 創業の精神と業績』(株式会社鳴美、2018)59~62頁
(91)近代郵便制度の原則は、①政府専掌による低額な全国均一料金、②国内全域の郵便集配ネットワーク、③切手などによる料金前納、④利用の平等性(井上卓朗「日本における近代郵便の成立過程―公用通信インフラによる郵便ネットワークの形成―」『郵政資料館 研究紀要』第2号(2011年3月)18頁)。


そのため、明治6(1873)年、政府専掌による均一料金制度を実施すると同時に、駅逓寮雇のアメリカ人サミエル・ブライアンを米国に派遣し、駐米公使館員高木三郎の指揮のもと郵便条約締結の交渉を開始した。この条約が締結されると、横浜、神戸、長崎に外国郵便を取り扱う日本の郵便局が新築され、米国の郵便局は撤去された。その後、明治7(1874)年に設立された万国郵便連合(UPU)に加盟することで、英仏の郵便局も閉鎖され、日本の郵便に関する主権は完全に回復されたのである。
国際ネットワークということでは海上航路の確保も必要であった。外国航路は、アメリカのパシフィック・メール蒸気船会社、イギリスのP&O社など外国の船会社が独占しており、国内の函館、横浜、神戸、長崎にも寄航していた。前島密は、政府の商船管理方針を早く確立し、海運の近代化を図り、海運の振興をしなければ、海外への進出ができなくなると考え、「海運振興三案」を盛り込んだ建議書を草した。政府は「第一命令書」を発して、明治8(1875)年1月に、岩崎弥太郎に日本最初の外国航路となる横浜・上海線の開設を命じることになる。

海のイメージ

【6】おわりに 前島密にとっての文明開化

文明開化とは一般的には優れた西洋文明を取り入れ近代化することである。明治新政府は政策的に殖産興業や富国強兵を推進し、脱亜入欧を目指した。しかし、前島密は、日本に必要な西洋文明の本質を、西洋風の風俗や建物などのような外形ではなく、その精神にあると捉えていた。その精神を導入するためには、日本の国民自身が日本魂(アイデンティティ)として、自主・独立の考えを持たなければならない。その精神を日本社会に確立するために最も重要なものが情報であり、国家だけでなく、すべての国民に最新の必要な情報、さまざまな情報がすみやかに伝わるネットワークを構築しなければならない、と考えたのである。
また、青少年を自立した日本国民に育てるために、教育を行う学校や新聞、雑誌もまた必要不可欠なものであり、育成すべき対象であった(92)
前島密が、幕末、開成所頭取松本寿太夫の協力を得て漢字廃止論を将軍に献言した際には、まずは教育によって国本(国の基本)を創り日本魂による文明開化を成し遂げ、西洋魂と対等な関係を築こうと考えていたのであろう。
幕臣から維新政府に身を投じた前島は、改正掛において大隈重信、渋沢栄一ら西洋の国家制度の本質を理解しているメンバーとともに、その近代日本の設計図を描くことになった。そして、国家の基盤となる交通・通信インフラを自ら早期に創り上げた。
完成した日本の郵便ネットワークは世界標準仕様であることから、インターネットに接続するがごとく、世界中の郵便ネットワークと接続することが可能であった。そのため、日米郵便交換条約の締結、UPU加盟によって、日本には世界中の情報が入るようになり、日本の情報もまた世界に向けて発信されるようになった。
前島密は、日本における文明開化の本質を「日本人が日本人としてなにものにもとらわれない自立した自己を確立すること」として捉えていた。
そのうえで、前島密にとっての文明開化とは「日本が国際社会において国家的独立を果たすために、近代国家としての日本という国を構築する」という自身の志、思想の実現であったといえるであろう。


(92)明治4年郵便規則(1872.1.14)により日誌・新聞紙、書籍等の低料取扱いが開始され、明治6(1873)年には新聞原稿逓送規則が制定され7月1日より無封または開封の新聞原稿は4匁まで無料となった。これにより、新聞・雑誌が全国に広がるきっかけとなった。磯部敦「『開化新聞』『石川新聞』の出版史的考察:明治初期地方紙出版の一モデル」『書物・出版と社会変容』Vol. 01(「書物・出版と社会変容」研究会、2006)には、その状況が明確に示されている。明六社による明六雑誌も郵便報知新聞の新聞広告により全国に広まった。啓蒙思想の普及や自由民権運動の高まりも、それ以前にこれらの制度が前島密により文明開化を目的として意図的に整備された結果である。文明開化と明六社に関しては石井寛治「幕臣たちの文明開化」『郵政博物館研究紀要』第10号(2019年3月)13~25頁、杉山伸也「福澤諭吉と文明開化」『郵政博物館研究紀要』第10号(2019年3月)26~41頁、石井寛治「明治150年記念講演;幕臣たちの文明開化」『通信文化』第78号(公益財団法人通信文化協会、2018年9月)4~9頁を参照。


井上卓朗さん近景文:井上 卓朗(いのうえ・たくろう)
郵便史研究会理事・学芸員(郵便史)。1978年郵政省へ入省、1983年逓信総合博物館に異動し、郵政三事業、電気通信事業に関する学芸業務に従事。2012年主席資料研究員、2016年郵政博物館館長などを歴任した。在職中は「ボストン美術館所蔵ローダー・コレクション展」などの企画を担当した。

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