小判切手の前史について|明治7-9年

はじめに

イタリア出身のお雇い外国人のエドアルド・キヨッソーネが紙幣・切手印刷、美術指導も含めた大きな足跡を残したことがあまりにも有名ですが、紙幣頭を務めた得能良介、紙幣印刷で活躍した矢嶋作郎(矢島作郎)の名にも注意しながらお読みください。(編)

(以下、近辻喜一氏による解説)

紙幣寮の新印刷工場

明治7年1月、紙幣頭に就任した得能良介は、さっそく新紙幣製造の国産化に着手、同年3月に製造委託先のドイツのドンドルフ会社から紙幣製造機械を購入する契約を結び、同年12月にはその紙幣製造機械が横浜港に到着しました。これとともに、同社の技術者両名も来着し、翌8年1月には、イタリア人のエドワルド・キヨソネも来航します。

これより先、6年1月、紙幣寮内に印刷所が設けられ、3月には三井組構内の全施設をここに移し、一応工場らしい体裁を整えたものの、とても大規模な洋式機械を設置できるような構造にはなっていませんでした。得能紙幣頭は、新工場の原案作成方を、七等出仕の矢島作郎に命じました。彼は、慶応4年から明治7年3月まで英国に留学、明治5年にはフランクフルトで新紙幣の製造監督を担当しており、在欧中に実見した英・独二国の諸工場の模範を折衷取捨した三階建の工場を設計しました。

矢島作郎の設計図をもとに検討を重ねた紙幣寮では、明治7年5月、工場建築の成案を得て上申書を大蔵省に提出しました。上申案は、本省の審議を経て、同月中に正院に提出されました。その後の折衝は難航を重ねましたが、ついに同年12月、裁可の決断が下り、寮の敷地に隣接する大手町2丁目の内務省所轄の土地を合わせて用地を確保、明治9年10月に西洋式二階建赤煉瓦造りの大建築が落成しました*

大蔵省紙幣寮の銘版のある五厘はがき

凸版切手の発行

切手の中央に大きく楕円形の枠模様が収められ、その上半に「大日本帝国郵便」と初めて国名が入りました。この「小判切手」と呼ばれるシリーズは、途中の改色をはさんで、明治32年まで発売されました。

切手と同時に、五厘はがきと1銭はがきも発行されましたが、完全均一料金制への移行に伴い、市内用の五厘はがきは明治15年末に廃止されました。また、日本がUPU往復葉書の交換加盟に同意したことにより、明治18年に初めての内国・外国用往復はがきが発行されています。

*現在、日本郵便グループ本社が入居する大手町プレイスは、明治9年の紙幣寮工場があった場所にあたります。

小判切手1銭を貼付した五厘はがきの使用例

文:近辻喜一(ちかつじ・きいち)

近辻喜一さん郵便史研究会会長。『新版・明治郵便局名録』(鳴美、2015年)校訂者として知られ、一般の方にも親しみやすい郵便史の解説で定評がある。多摩地域を中心とする郷土史研究者としての顔も持つ。

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