ネオ・バロックの壮大な逓信省本省庁舎|吉井茂則・内田四郎

木挽町8丁目1番地

逓信省本省のあった木挽町8丁目1番地は、郵便というよりも電信との関わりが深い場所で、電信の研究機関と資材倉庫のあった場所でした。明治15年(1882)11月1日には工部省電信局が移転して管理部門となり、一般の電報利用者向けには潮留(止)電信取扱所も同日に設置されました。ところが、工部省は明治18年(1885)12月22日の内閣制度の創設時に廃止され、その電信部門は逓信省に移管されることになります。ここではちょうど工部省電信局の新庁舎が建設中だったのですが、明治19年(1886)1月4日にはこの場所に逓信省本省が入居する旨が布達されました。新たに逓信省の一員となった電信部門の職員ですが、念願の新築庁舎を新しい省庁に差し出すことになり、心中複雑なものがあったようです。

再建された逓信省本省庁舎

ところが、この逓信省庁舎は明治40年(1907)1月22日に起きた火災で焼失しています。第二号館(渡辺譲・辰野金吾設計の旧本館)から出火、第二号館に加え第一号館(増築建物)にも延焼しました。絵葉書などでよく見かける逓信省庁舎は同じ場所に焼け残りの分に修繕を加えながら再建した煉瓦造りのものです。木挽町に赤煉瓦に白石の帯をまわしたネオ・バロックの壮大な建物で、ランドマークとしての役割を果たしていました。設計を担当したのは、逓信省技師の吉井茂則・内田四郎の2名で、まさに逓信省本省営繕課のトップがその任にあたっています。なお、逓信省構内郵便局は明治37年(1904)12月27日設置ですので、木挽町における旧庁舎の時代にすでに開局していたことになります。

逓信省本省

逓信省本省

(図版協力:安藤源成氏)

逓信省本省庁舎の罹災

しかしながら、満を持して建てられた逓信省本省も長くは続きませんでした。大正12 (1923)年9月1日11時58分に発生した関東大震災で倒壊こそ免れましたが、まもなく付近で起きた火災の延焼により、焼失することになります。逓信省技師の吉田鉄郎はかろうじて設計中の東京中央郵便局の図面を持ち出すことができたという逸話がありますが、このとき逓信省営繕の建築資料のほとんどは焼失したと考えられます。

同地の一部は関東大震災後も逓信及び郵政事業のために使用され、昭和43年(1968)9月には東京南部小包集中局が置かれ、東京中央郵便局の小包関連の業務が移管されました。平成3年(1991)3月29日には大口郵便物の集中処理専門局である銀座郵便局(風景印有り)が設置され、今日にいたります。

参考文献:『明治・大正期の逓信建築の研究―モダニズム期以前の局舎と技術者達』(古山精一、2021年)

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