横浜郵便発祥の地
横浜には近代水道やガス事業など、さまざまな発祥の地の記念碑がありますが、横浜市中区弁天通3丁目には「横浜郵便発祥の地」の碑があります。ちょうど弁天通りと関内桜通りの交差点にあり、特に意識しなければ素通りしてしまうような小さな碑です。現地を訪れると意外に思うかもしれませんが、一方通行の細い道路沿いの一角で初代の横浜郵便役所は明治4年(1871)7月15日に開局しました。
当時、この場所にあったのは「鹿島屋」という旅館でした。安政6年(1859)創業ですから、ちょうど横浜開港の年にあたります。この旅館を明治4年時点で所有していたのは山室亀吉という人物でした。山室は慶應4年(1868)に江戸・永代橋と横浜間で蒸気船稲川丸を定期運航させたことで知られ、郵便創業後まもなく郵便取扱の役を担ったのです。もっとも政府が「鹿島屋」を借り上げて郵便役所としていた時期は約2年と短く、ほどなく官庁街の本町へと移転することになります。
正院本省郵便決議簿の記述
郵政資料館が所蔵する正院本省郵便決議簿は、明治3年(1870)前島密が郵便創業を建議した時から二年間にわたる、郵便に関する省議の起案文書、決裁文書類をまとめた簿冊です。この明治4年部分をなす第二巻に横浜郵便役所創設時の経緯が記述されています。ここでは、同史料の翻刻を行った郵政博物館学芸員の田原啓祐さんのご厚意により、現代語訳をご提供いただきましたので、紹介したいと思います。
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正院本省郵便決議簿 第貮号(三十八)
今般横浜へ郵便役所を設置することになり、実地を調査したところ、横浜港の郵便書状取扱は当初神奈川駅出張駅逓掛が所轄となっており、郵便書状は神奈川が持ち出すところとなっているため、賃銭切手売捌所もなく、その後盛況となりしばしば外国人より書状差立や本国への土産のため切手を大量に購入する場合もあり、いずれにしても体裁が悪いため、県庁の決議をもって神奈川駅郷方取締の小机村浅田金七、横浜弁天通三丁目山室亀吉は身元が確かな者により郵便書状取扱方を両人に申し付け、最初の体裁を改め、前書の山室亀吉居宅のうち表間口三間余りの場所を郵便取扱所として設け、書状集め箱を製造し、吉田町、元町両所へ建て、手代の者に下働きを申し付け、諸費用不足の分はそれぞれ自力をもって賄い、日々横浜港中を廻る書状を受け取るよう手続きをし、すでにこの頃日々の発着書状は百数十通に及んでいるが、飛脚業の者どもは別仕立または金子入及び東京行の書状を各店請負で競り合い、ともすれば郵便に対し誹謗が出る状況にて実に捨て置きがたいことであるから、今般郵便役所を設置の上、各所普通の仕立て便を開設することによって外国人に対しても一層体裁も立ち、かつ郵便開設の趣意も貫徹することになるため、至急横浜へ郵便役所を開設するべく、概略を別紙のとおり取り調べ、伺うこととする。
辛未五月
横浜表へ郵便役所設置につき弁官への伺い案
信書往復は全国の景況連絡を通し、物貨平準の道を通し、実に国を治めることや世の中の交際のための重要時であり、三月中に三府ならびに東海道筋に郵便創業のところ、日を追うごとに盛大になり、特に横浜については三府そのほかへの信書の往復が多数であるため、同港に郵便役所を設置し、東京中はもちろん各地普通の仕立便を開設して一層便利なり得、ことに国内の者や外国人の金子取引書状往復において最も重要な地にて、千万の金をも仕立便をもって差立て、全部飛脚業の者が請け負ってきたが、届くのがとにかく遅れるなど不都合な対応があることも聞いており、よって横浜に郵便役所を設置し、差し詰め東京横浜間の信書はもちろん、金子往復等すべて取り扱うことで、いずれ取締りも相立ち、郵便創業の趣意を貫徹してしかるべき義となり、よって布告案ならびに時間賃銭表及び仕法書を添えて、大蔵省へも打合せの上、伺うこととする。
辛未五月 民部省
弁官御中 ご布告案
上下一般信書の送達の便利のため、三月中三府ならびに東海道筋に郵便創業するところ、横浜については国内や外国の者が輻輳する地であり、各地へ信書の往復が極めて重要なことであるが、これまで到着がとにかく遅れ、不都合が少なくないと聞き及んでいるため、横浜へ郵便役所を設置し東京横浜の間ならびに各地信書の往復さらに便利の方法を七月十五日より開始するので、公私の別なく時間賃銭表のとおり心得ておくこと。
辛未五月 太政官