初めての記念切手発行はいつ?|明治27年 2022.07.22 明治銀婚記念発行の経緯明治27年3月9日、明治天皇の大婚二十五年祝典が盛大に挙行されました。その準備の進むなか、横浜在住の一外国人の投書をきっかけに、記念切手を発行すべしとの機運が急速に高まり、印刷局は2週間という超短納期*で、無事、記念切手の製造を完了しました。国内書状用の2銭切手と外国書状用
小包郵便はいつから?|明治25年 2022.07.15 小包郵便は東京管内で試行明治25年6月、小包郵便法が公布され、まず同年10月から東京管内の19局において小包郵便が開始されました。郵便料金は距離と重量により決められ、距離別は20里から300里超の10段階、重量別は200匁から1貫500匁までの7段階と、複雑な料金体系である。最低は6銭、最高は9
地方逓信官制によってできた三等郵便局|明治19年 2022.07.08 三等郵便局の誕生郵便局に一等から五等まで等級を付けていた時代もあったが、地方逓信官制が敷かれた明治19年3月から郵便局は三等級制になりました。ごく簡単にいえば、官立の一等局は大きな都市に、同じく二等局は大都市に次ぐ中小都市に、請負制の三等局は最寄りの町や村に、それぞれ設置された郵便局のことです。
逓信省の設置と地方官制|明治18-19年 2022.07.01 逓信省の時代明治18年12月、西洋近代国家の制度に倣い太政官制度に代わって内閣制度が創設されました。逓信省も創設9省の1省となり、初代逓信大臣に榎本武揚が就任しました。逓信省は旧農商務省の駅逓局と管船局、旧工部省の電信局と燈台の四局の業務を一元的に所管することになりました。逓信管理局の設置
郵便の中央集権化と合理化|明治16-19年 2022.06.24 はじめにやや専門性が高い記事内容ですが、(1)明治16年に郵便事業が府県から中央官庁の直轄で行われるようになったこと、(2)郵便事業の赤字体質を克服するための合理化施策が行われたことの2点を抑えていただければと思います。(編)(以下、近辻喜一氏による解説)駅逓区編制法の概要と意義
第一種郵便などの区別ができたのはいつ?|明治16年 2022.06.17 郵便条例施行=明治16年1月1日「明治一四年の政変」で、明治14年11月、前島密は駅逓総監を辞職、その後に野村靖が就任しました。それから約1年後の明治15年12月、郵便条例が公布されました。施行は明治16年1月1日でした。これまで毎年年末に翌年の郵便事業運営の基本となる郵便規則及び罰則が公布され
万国郵便連合加盟がもたらしたもの|明治10年 2022.06.10 万国郵便連合への加盟明治10年6月、日本が3年前に創設された万国郵便連合(UPU)に加盟しました。連合加盟国は、それぞれ二国間条約を締結することなく、連合の単一条約に基づいて加盟国相互で郵便が交換できるようになるのです。その後、イギリスとフランスの在日郵便局も撤退し、わが国の郵便自主権が完全に樹
小判切手の前史について|明治7-9年 2022.06.03 はじめにイタリア出身のお雇い外国人のエドアルド・キヨッソーネが紙幣・切手印刷、美術指導も含めた大きな足跡を残したことがあまりにも有名ですが、紙幣頭を務めた得能良介、紙幣印刷で活躍した矢嶋作郎(矢島作郎)の名にも注意しながらお読みください。(編)(以下、近辻喜一氏による解説)紙幣寮の新
五等郵便局制|明治8年 2022.05.27 郵便局の等級明治6年4月、事務の繁閑により256ヵ所の重立郵便取扱所を「郵便仮役所」とし、二等から四等に格付けしました。郵便取扱人については、一等から七等までの等級を設け、口米もその等級に応じて支給することになりました。その後、明治8年に官吏出張の郵便役所を一等郵便局に、郵便仮役所をその
日本における外国郵便はいつから?|明治8年 2022.05.20 日米郵便交換条約の締結明治6年2月、駅逓寮は、外国郵便業務に精通したアメリカ人のサミュエル・M・ブライアンをお雇い外国人として招聘しました。ブライアンは対米交渉を担当し、同年8月に日米郵便交換条約に調印、翌年4月にワシントンで批准書交換、6月に条約が公布されました。明治8年1月5日、横浜郵便
日本最初の官製はがき(紅枠はがき)とその後|明治6-8年 2022.05.13 二つ折はがきの発行わが国最初の郵便はがきが、明治6年12月に発行されました。オーストリアが世界最初の郵便葉書を発行してから、わずか4年後のことです。薄手の洋紙を縦長に二つ折りにした形状から、「二つ折はがき」と呼ばれます。市内用半銭と国内用1銭の2種類があり、共通の枠が紅色で刷られていることから、
東京中央郵便局と東京駅を結んだ日本初の地下電車|大正4-6年 2022.05.07 東京中央郵便局と東京駅を結ぶ地下電車の構想明治22(1889)年、新橋から神戸までの東海道線が全通し、当時「三菱が原」と呼ばれた皇居(宮城)正面の原野に中央停車場(東京駅)を建設することが、明治29(1896)年の第9回帝国議会で決定され、明治41(1908)年から駅舎工事が開始されました。